絵の中で逢えたなら

敏腕侍女の依頼

 理部次官室に一人の女がやってきた。名をじょう依依いーいーという。皇帝の妃の一人、楊凛ようりん妃つきの侍女である。

 歳は三十路前くらいだろうか。

 皺ひとつない襦裙じゅくんと品のいい香を纏い、頭のてっぺんからつま先まで小綺麗に整えられた身なりは誰が見ても人好きのするものだ。

 ただその完璧な風貌は一方で、自分の身を守るための硬い殻のようにも感じられた。

(また珍しい客が来たものだな)

 ここ夏后国の宮廷で、女の職は大きく分けて三つ。

 女官、侍女、宮女である。

 女官は科挙を突破した者たちで、男の官吏と同じ仕事をする。

 侍女は要人に付き専属で世話をする者たちのことを指し、宮女は宮廷内の下働き全般を担う。

 なので女官であれば、役所にあるこの理部次官室にも頻繁にやってくるのだが、今目の前にいる女は侍女、しかも皇帝の妃に付いている者だ。

 普段後宮で働いている侍女が役所群に乗り込んでくるというのは、極めて珍しいことなのである。

 木蓮は不思議に思いながらも、その珍客のために羅漢床ながいすの上を片付けた。

「茶を淹れますからここで――」

「そんな滅相もありません。お茶なら私が」

 数回の押し問答の末、なんとかじょう依依いーいー羅漢床ながいすに座ってくれた。

 本来、次官ともなれば侍女か侍従がついているものなのだが、木蓮にはそのどちらもいなかった。その代わり、いつもは侍女侍従なみに世話焼きの弟子がいる。しかし今日はもう帰ってしまった後だった。

 木蓮は茶を淹れ常依依に差し出し、自分は執務机の向こうに腰かけた。

「さっそくですが、ここに来られた理由を伺ってもいいですか?」

 木蓮は自分用に淹れた香嘉をゆっくりかき混ぜながら尋ねる。

 じょう依依いーいーは言いづらそうに口を開いた。

「……蔡次官はその、理学にお詳しいんですよね?」

「はあ、まあ一応」

 理部の次官なのだから、当たり前の話である。

「その……ぜひ蔡次官に、直して頂きたいものがあるのですが、お願いできませんでしょうか?」

「それは楊凛ようりん妃からの依頼ということですか?」

「いいえ、わたくし個人の……お願いです」

 理部を含め六部は皇帝の命に従い、民の繁栄のために働くことが使命だ。皇帝の妃ならまだしも、侍女の個人的な依頼を受けつけるところではない。

「常殿、ここでは個人的な依頼を受けることはできません。あなたもそれはご存じでしょう?」

「ええ、存じております。そのうえで、お願いしているのです」

 じょう依依いーいーの顔は切羽詰まった様子だった。

 実はこの常依依という女、役所の方でも有名な女であった。「楊凛妃の侍女」といえばこの宮廷内に知らない者はいない。

 楊凛ようりん妃が後宮入りしたとき、彼女はまだ十五になったばかりだった。入城した当初は皇帝から特別気に入られるわけでもなく影の薄かった彼女は、しかし瞬く間に、後宮ひいては宮廷内でその地位を確立させた。

 その陰には、侍女、常依依の存在があったと言われている。彼女は官吏も顔負けの政治的手腕に優れた人物であったのだ。

 常依依は実家の後ろ盾も利用して、各所への根回し、主要官吏の買収、他の妃たちへの牽制と懐柔、それら全てを一人で担っていたのである。

 さらに楊凛妃の閨教育までやっていたという話はさすがに眉唾ものだろうが、彼女の手によって楊凛妃の宮廷生活が花開いたのは疑いようがなかった。

 そんな敏腕侍女である常依依じょういーいーが、規律をないがしろにしてまでしてくる依頼。

 これはあまり関わらない方がいい気がする、と思いながらも妃の侍女を無下に追い出すわけにもいかない。木蓮は話くらいは聞いてやることにした。

「お受けできるかは分かりませんが、話を聞くだけでも良ろしければ……」

 その言葉に、常依依はすがるように頷いた。

 そしておずと話しはじめる。

「実は、お願いしたいものというのは……ある絵についてなのです」

(ほう)

 ”絵”か。木蓮は真剣な顔を繕いつつ内心ニヤリと微笑んだ。

「私にとってはとても大切な絵なのですが、上から水飴のようなものがかけられておりまして。どうにかそれを剥がして頂きたいのです」

「それは実際に見てみないと何ともお答えしようがありませんが。ちなみにそれは、何の絵なのですか?」

 すると常依依は途端、目をそらしうつむいた。

「それが、その……。于計うけいという男を描いた絵でして」

 木蓮はその男の名を聞いて驚いた。

 于計とは、先月、刑部の獄中で死んだ官吏の名である。彼は素行が悪いことで有名で、酒を飲んでは同僚ともめごとを起こしていた。さらに至る所で借金をしたあげく、戸部の金に手をつけようとして捕まった男だ。

 そんなだらしのない男の絵を、なぜ常依依じょういーいーは持っているのだろうか。

「失礼ですが、于計殿とはどのような関係だったのですか?」

 聞かれて常依依はまた答えづらそうな表情になる。

「私たちは、幼い頃からの……許嫁だったのです」

 そう小さな声で答える常依依はなんだかとても哀れだった。

 侍女として宮廷で名を馳せる常依依ともあろう者が、あんな酷い男の許嫁だったとは。人の境遇とは異なものである。 

 憐れむような木蓮の目に気づいて、常依依は抗議の目を木蓮に向けた。

「于計は皆が言うほど悪い人ではなかったのです。言われていた噂も、ほとんどがでたらめでした。刑部に捕まったのだって、きっと何かの陰謀にはめられたに決まってますわ」

 言い終わらないうちに常依依の目から涙が溢れていた。

 ぼろぼろ涙をこぼす彼女を前に一瞬固まった木蓮だったが、とりあえず手水鉢で手拭いを絞って常依依に渡してやる。

「ああ、すみません。とんだご無礼を。いまさら泣いたところで、もう于計は帰って来ませんのにね」

 常依依は大きく息を吸い込んで、ゆっくりとはき出した。

「でも、せめて于計を描いたあの絵だけは、どうしても諦めたくないのです。ですが街の美術商にもどうにもならないと言われてしまって。そんな時、歌会で蔡次官のお姿を拝見して、あなた様ならもしかしてと思ったのです。噂はかねがね聞き及んでおりましたので」

 常依依はまたすがるような目を木蓮に向けた。

 もしこれが他の物だったなら、木蓮はこの依頼を断っていただろう。しかし、今回の依頼は”絵”である。

「分かりました。一度見てみましょうか。ただ、私の他に一人同行させたいものがいるのですが、よろしいですか?」

 常依依は提案をすんなり受け入れ、後日、絵が置いてあるという常依依の実家に伺うことで話がついた。

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