酔芙蓉
木蓮から「客が見つかった」と連絡が来てから一週間後の今日。姫棋と木蓮は一緒に依頼主の邸宅に伺うことになっていた。
「遅い。何してたんだ」
「これでも頑張って急いだんだよ。女の世界は色々大変なんだから」
姫棋は口を尖らせる。
宮女はそうそう後宮の外には出られない。なので木蓮は「宮廷の仕事」という名目で外出許可証を渡してくれていたのだが、宮女の外出を阻む者はなにも門番だけではなかった。
むしろ門番などよりよっぽど厄介なもの。
それが仲間であるはずの宮女たちなのである。
女の職場というものには、どこにも必ず「洗礼」という儀式が存在する。それはまたの名を「新人いびり」とも言い、この「新人いびり」に心をやられて辞めてしまう宮女は後を絶たなかった。
ただ辞めて帰るところがある者はまだいい方で、身売り同然で後宮に来たものや頼れる親族のいない者は、ひたすらにその洗礼を耐えるしかない。
そして姫棋もまた後者であった。
今さらあの屋敷に戻ったところで、待っているのは飢餓との闘いだけ。帰る場所などないも同然だった。
だが姫棋は「洗礼」ごときでくじける
(受け身にさえならなければ、どうということはない)
同じ出来事も、捉え方次第で感じ方も変わるというもの。基本的に一方的な受け身は心身に大きな
ならば、攻勢にでるまでである。
姫棋は自ら人を傷つけることはなかったが、傷つけられるのをただ黙って我慢しているような女でもなかった。
つまるところ、意地悪な宮女たちと派手にドンパチをかましてきたのである。
(木蓮に言ったって、どうせ分からないだろうな)
(この男、どうもちょっと変というか……)
人の感情に疎そうな気がする。
それに今だって久しぶりに会ったというのに「元気にしてたか?」とか、「後宮には慣れたか?」とか、そういう気の利いたことは言えない奴なのだ。
(こんな男が本当に理部の次官なのだろうか)
この国には工部の代わりに理部という部署があるらしかった。仕事の内容は姫棋にはよく分からなかったが、六部の一部署、その
さらに姫棋が不思議に感じる点は、彼のその若さである。
どう見ても自分と同じくらいの歳頃にしか見えない若者が次官に抜擢されるなど、あり得るのか。
(まさかこの見た目で四十路を超えてます、なんてこともないだろうし……)
一体どんな裏技を使ったんだ。
姫棋は客の邸宅へ向かう道すがら、木蓮の横顔をじっと見つめていた。というか睨んでいた。
するとその視線に気づいた木蓮が横目で姫棋を見やる。
「何だ」
「いや別に。……木蓮は、これから見に行く絵の男には会ったことがあるのかなって」
「会ったというか、刑部に連行されていくところを遠目に見ただけだな。ひどく顔色の悪い、やつれた男だったよ」
「何で捕まったの?」
「酒におぼれて、借金をつくって、職場の金に手をつけたんだ」
「うわあ、とんだ駄目男だ」
「ああ。でもそれ
これから行く屋敷は、高級住宅街の一角にある。宮殿区近くにあるその一郭は
そういうところで育った
(さあてどんな人だろうか)
姫棋は依頼主と彼女の絵に対する興味がむくむくと膨らんできていた。
◇ ◇ ◇
常衣衣の豪奢な邸宅に辿り着いた二人は、さっそく件の絵が置いてあるという応接間に通された。
応接間には立派な調度品が数多く置かれていたが、その中で件の絵は明らかに異質だった。
それは、
おそらくは于計と思われる人物の絵が描かれているようだが、その姿はすでに見る影もなくひどい有様になっていた。
聞いていたとおり何かがべっとり付着していて、一部の顔料は溶けてしまっている。
ただ絵をここまで痛めつけた
そう、これは――。
「
「膠だな」
姫棋の声に木蓮の声が重なった。
(ほう、木蓮も一目でこれが
膠とは、顔料を画紙に固定させるために使用するものである。
しかし普通は顔料と混ぜて使うもので、こんな風に原液を絵の上にかけたりしない。絵の上にかけられた膠はまるで涙の流れたあとのようになっていた。
誰がやったか分からないが、また思い切ったことをしたものである。
屏風にかけられていた膠はかなりの量だと推測された。
「にかわ、というのはどういうものなのですか?」
その問いに答えたのは木蓮だった。
「膠とは接着糊の一種です。牛や鹿など獣の皮や腸を煮詰めてつくるもので、非常に強い接着効果を発揮します。ただこれも万能というわけではなく、高い温度と湿気があれば剥がすこともできますが……」
木蓮がちらと姫棋を見る。
その視線に姫棋が後を請け負った。
「おそらく絵の顔料が一部膠に溶けてしまっているので、剥がしても元の絵には戻らないと思います」
「でも剥がせなくはないのですよね? なら一度その膠とやらを剥がしてみては頂けないでしょうか。もし綺麗に剥がせる可能性が少しでもあるなら、その可能性にかけてみたいのです」
元の絵に戻る可能性というのは限りなく無いのだが、この依頼主には見せた方が早いのかもしれない。
木蓮もそう思ったらしく、さっそく膠を剥がす段取りを常依依に伝えていた。
姫棋は常衣衣が部屋から出ていくと、屏風を隅々までよく観察してみることにした。
外枠は杉の木でなめらかに削られ、下地の紙も上質なものを使っている。
さらに屏風の裏に回り込んでみると、裏面にまで美しい格子模様と金箔が貼られ、かなり手の込んだ屏風であることが分かった。
(ん? 何だこれ)
姫棋がじっくり細部まで観察していると、裏面の下部、木枠ギリギリのところに何か汚れのようなものがあるのに気づいた。しゃがんでよく見てみると、それは汚れではなく墨で書かれた文字だった。
『吾堕ちぬ 酔芙蓉 どうか許されたし』
一体誰がこんなところに書いたのだろうか。絵師が書いたにしてはいささか不審な文言である。
「ねえ木蓮、これなんだと思う?」
言ってからここでこの呼び方はまずかったか、と姫棋は一瞬ヒヤリとした。出逢った時は不審者でしかなかった木蓮もこの国では官吏。対して自分は宮女である。立場上怪しまれないよう人前では物言いに気をつけねばならない。
ならいつも宮女と官吏として接していればいいわけだが、これは姫棋の意地だった。
せめて絵の仕事をするときだけは、木蓮と対等の立場でいたかった。
一方の木蓮はそんなことはあまり気にしていない様子で、屏風をまわりこんできて裏に書かれた文言に目を落とす。
「酔芙蓉か……。これはおそらく
「酒におぼれた于計ってこと?」
酔芙蓉の花は一見普通の芙蓉と変わらないが、その花弁は朝には白く夕になると赤く染まる。その様子がまるで人が酔っぱらった様子に似ていることから名づけられた花だった。
「飲んだくれだって、
それにしては違和感がある気がした。むしろこれは、酔芙蓉に例えた誰かに宛てた文言のようにも思える……。
しかし木蓮はもう興味を失ったようで、やれやれと立ち上がった。
そしてその時ちょうど、常依依が「
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