夢見る少年の企み
まずは火鉢。すでに炭に火が入っていて、その上に湯の入った鍋が置かれた。
さらに木蓮は下女から
「さあ、これでもう一度湯が沸いたら……」
木蓮の指示で、下女たちが屏風を裏向けにし、床に水平になるよう持って運んできた。その様はちょうど屏風を火鉢であぶるような恰好となる。
可哀そうに下女たちは、こんなことをして
下女の一人から受け取った木べらでさっそく膠剥がしに夢中である。
これは下女たちのためにも早く終わらせてやった方がいいだろう。そう思って、姫棋も木べらをもらって木蓮を手伝った。
(それにしても、うまいこと考えたな)
鍋に漏斗など被せなくても、膠は湯気に当てさえすれば剥がせただろう。しかし漏斗を使ったことで蒸気は離散せず細く立ち昇るため、膠が付いている箇所にのみ蒸気を当てられる。
つまり膠が付いていない箇所には無駄に蒸気を当てなくて済むのだ。おかげで屏風が痛むのを最小限に抑えられる。
(木蓮のやつ、こういうのを考えるのが得意なのか)
姫棋は感心しながら、ふと隣にいる木蓮の横顔に目をやった。
彼はなおも膠剥がしに集中していて、じっと手元をみつめている。その表情はとても楽しげで、そしてどこかあどけない顔つきだった。まるで新しい世界を夢見る少年のように――。
「よし、これでいいだろう」
木蓮の言葉に、下女たちが屏風を垂直にもどして床に置く。
姫棋と木蓮、そして下女たちの頑張りで膠は完全に剥がすことができた。が。
「ああ、
やはり絵は予想通りの惨状になっていた。
ところどころ滲んだように色が溶け、紙の一部が薄くはげている箇所もある。もはや何の絵だったか分からないくらい、元の絵は見るも無残な状態になっていた。
姫棋にしてみれば最初から分かっていたことではあったが、常依依はここまでしてやっと、絵は元に戻らないのだと悟ったらしい。屏風の前に
姫棋は、嗚咽まじりに震える常依依の背中をさすってやる。
さすがにここまで傷んでしまった絵を修復することは姫棋にもできそうになかった。
せっかく木蓮が紹介してくれた仕事だったが、どうやら今回は空振りに終わりそうだ。
姫棋は残念な思いで、傍に立っていた木蓮の顔を見上げる。すると、彼は予想に反して不気味な笑みを浮かべていた。
そして、唇だけで伝えてくる。
『か・け・る・よ・な』と。
彼の口元を見つめながら姫棋は、迂闊にもポカンと口を開けていた。
(描ける?)
何をだ。まさかこの絵を描きなおせと?
姫棋が動揺して応えあぐねている間に木蓮は、今度は常依依に声をかける。
「常殿、おそらくこの絵の修復は不可能ですが、ならば于計殿の新しい絵を描いてもらう、というのはどうでしょう?」
木蓮は恐ろしいことを飄々と言ってのけた。
(意味を分かって言っているのか?)
会ったこともない死者の絵なんか、どうやって描けというのだ。
もちろん絵師は自分が目にしたことのない物を描くことだってある。桃源郷や神様や、龍に麒麟。でもそれは
だが「描けるよな」と言われると姫棋の絵師としての
姫棋が悶々と葛藤している横で、常依依が顔を上げる。
「于計を……描いて下さるのですか? でも彼は、もう死んでしまっておりますが……」
「大丈夫、この絵師なら描いてくれます。でもそうだな。ご不安なら、買うかどうかは仕上がった絵を見てから決めてもらう。ということでどうでしょう?」
その言葉を聞き、常依依はしばし逡巡したのち「ではお願いします」と真剣な顔で答えた。
木蓮は常依依に微笑み返した思うと、そのまま彼女の横にいる姫棋に目線を移す。
その目には、できるだろ、と言わんばかりの圧があった。
(言ってくれるじゃないか)
どうやら木蓮は、単に空気の読めない夢見がちな少年、というわけではなかったらしい。あっという間に話を持っていかれてしまった。
(だてに六部の次官じゃないってわけ)
姫棋はなんとか微笑みをつくって彼を見返すので精一杯である。
死者の絵を描けなんて、全くもって無謀な依頼だ。だが名もなき絵師にはこれくらいの逆境、乗り越えねばならぬ試練の一つなのかもしれない。
(やってやろうじゃないか)
行動してみなくては、始まるものも始まらないのだ。
「于計殿のことを色々聞かせて頂くことになりますが、それでもよろしいですか?」
姫棋が尋ねると、常依依は口をきゅっと結んで頷いた。
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