夏后国の後宮
(何でわたしは、芋なんか
屋敷にやってきた見目麗しき男。
最初は予想外の条件に驚かされはしたが、姫棋は木蓮の提案に二つ返事で頷いた。
絵を売ることができるなら住むところなんて構っている場合ではなかったのだ。これは千載一遇の機会。まさかあんなボロ屋敷にも未練はない。
こうなったら新天地で絵師として名を馳せてやる。
と鼻息荒く、この国にやってきた姫棋であったが、気づいた時には後宮に入れられ宮女となり、毎日こうして芋の皮を剝かされているのだった。
(まあ絵が売れるまでの
悪くないのかもしれない。
木蓮に絵を売ってもらうとはいえ、まずはこの国で暮らしていく場所や金が必要だ。家もなければ食う物もない。というのでは絵を描くどころの話ではない。
その点、宮女は衣食住全てを国に世話してもらえる。今の姫棋にとっては、かなり都合のいい職だったといえよう。
それに昔女官として働いていた姫棋にとって後宮は馴染みの職場でもあるし、男嫌いの彼女にしてみれば、女の園は最高の職場。のはずだったのだが、この国の後宮、姫棋の知る後宮とは一味違っていた――。
姫棋は
その道すがら、姫棋は見てはいけないものを目撃する。
世にも恐ろしい、男女の相引き現場である。
彼らは姫棋が近くにいることにも全く気づかず、木陰で盛大にむつみ合っていた。
姫棋は顔をひきつらせ、足早に
ここ夏后国の後宮で姫棋が驚いたことの一つは、男が後宮に入って来られるということだ。
さすがに妃たちの住まう
これはこの国に
夏后国では、宦官をつくってまで後宮の女たちを守る
宦官とは男の大事な部分を切り落とされ、子をつくれなくなった者たちである。
子は国の宝。その宝をつくる能力を減らすことは、国にとって大きな損失になるというのだ。
人口の多さは国の豊かさを表し、それはつまり強大な国力へとつながる。
姫棋にとっては男より宦官がいてくれた方が良かったが、理屈としてはなるほどと思えた。
ただ妃嬪殿区域は、この国でもやはり男子禁制である。ならば宦官なしで、妃嬪たちの生活や雑事への対応はどうしているのか。
実はこの国、男と同じく科挙を突破した女の官吏たちがいた。後宮において宮女や侍女が持て余す案件については、その女官吏たちが事に当たっているのである。
(いっそ私も科挙を受けてみようかな!)
なんて甘いことを考える姫棋であったが、科挙など思い付きで挑んで受かるようなものではない。
それこそ地方で神童と謳われた者たちが所詮、己は井の中の蛙だったと思い知り、本当に井戸の中に飛び込んでしまうような難関なのである。
「おおい。新入り! あんたに用があるってよ」
芋の皮を捨てて
そこには一文、こう書かれていた。
「客が見つかった」
と。
◇ ◇ ◇
時は数日前に遡る。
木蓮は夜遅くに役所群の一郭にある、
理部とは役所の中枢、三省六部の一つである。三省は立法・行政機関であり、六部は三省がつくった法案に基づき実務をこなす役所だ。
そのなかで理部の役割は、自然法則を応用し、技術開発を行う部署であった。
理部の管轄は数理・天文・生態・物質学と多岐にわたり、長らく泰安の世が続くこの国では、兵部を抜いて六部最大の部署となっていた。
「思いのほか遅くなってしまったな」
木蓮は理部殿に着くと、「
十六。それが理部次官に拝命されたときの年齢であった。
木蓮が夏后国史上最年少で次官となってから、今年で五年になる。
その間に、この部屋は実験道具や
この部屋に来訪した者は、口をそろえて汚いだの片付けろだのと言う。
しかし木蓮は断固としてこの部屋を片付ける気はなかった。
こうやって自分の興味のあるものに囲まれていると気が安らぐのである。魑魅魍魎が跋扈する宮廷において、この部屋は木蓮が唯一安心できる居場所なのだ。
それに散らかっているとはいえ、何がどこにあるのかは全て把握している。他人がどう思おうと何ら支障は――。
「いたっ」
木蓮はつま先の痛みに悶えた。黒鉛を入れていた木箱が倒れ、その箱の上に積んでいた紙束がひらひらと舞う。
くぅ、とつま先をさすりながら、木蓮はその元凶の箱を睨んだ。
(たまには……)
こういうこともある。これはけっして、物が多いからじゃない。
そう自分に言い聞かせ、椅子に腰かけた。
木蓮は、執務机に雑然と積みあがる典籍を押しのけ、
そして「香嘉」と書かれた小瓶の蓋をポンと開ける。
「香嘉」というのは夏后国原産の低木で、今木蓮が用意しているのはその木の実をすり潰し、数種類の香辛料と混ぜた飲み物だった。名のとおり香りが良く、気付にもなる。
香嘉の粉を入れた
出来上がった白茶色の飲み物のぬくもりに、ほぅと揺蕩いながら、木蓮は姫棋の絵について思いだしていた。
――不思議な絵だった。
荒々しい筆使いは最初、子どもの落書きのようにも見えた。が、違う。
およそ物の形を正しく写しとっていないのに、それでも確かにその絵は、それが瑞々しく芽吹く木々だと、あらゆる命を潤す泉だと、そして、あたたかく降りそそぐ木漏れ日の光なのだと、強烈なまでの印象を目に焼きつけてきた。
深い影とそこへ差し込む光の眩さを、あれほどまざまざと見せてくれる絵には出会ったことがない。
芸術の価値など分からぬ、なんならそれを避けてきたはずの自分が、まさか名も知らぬ者の絵に興味をそそられるとは思わなかった。
そして、気づけば彼女の提案を諾していた。
しかも皇帝には、ご宣託の
(我ながら大それたことをしたものだ)
こんなこと皇帝への反逆とみなされてもおかしくない。
露見すれば死罪もあり得る。それでも――。
木蓮は匙で
(危険は承知の上だ)
こうなったらもう、とことん彼女に絵を描かせてみよう。世界がひっくり返るとは思えないが、少なくとも彼女がどんな絵を描くのか愉しみではある。人生に愉しみは必要だ。
(問題はどうやって絵を売るかだが)
木蓮は絵の販路開拓に頭を悩ませていた。これまで美術品にあまり関心のなかった木蓮は、それらの愛好家たちともつながりはもっていなかった。はたして新規の顧客などそう簡単に見つかるだろうか。
しかしこれは結局、木蓮の杞憂に終わることとなる。
今まさに夜の闇にまぎれ、一人の女が理部次官室に向かっているのだった。
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