心に潜って

 姫棋キキが常邸に着くと、常依依はたくさんの小吃軽食や菓子を用意して待ってくれていた。

 侍女は本来、後宮に自室を持っているものであるが、姫棋に絵を描いてもらうため彼女はわざわざ仕事後に実家に帰ってきているのである。

 ならば二人は後宮で会えばいいという話だが、姫棋が宮女ということは常依依に伝えていなかった。

 常依依が宮女をどんな風に思っているかは分からないが、基本的に宮女というのは下働きであり最下層の人種というのが一般的認識である。

 そんな者に大事な絵を任せるとなると、彼女が不安に思う可能性があった。

 姫棋は木蓮と検討した結果、自分が宮女であることは秘密にすることにしたのだ。

 というわけで、姫棋は単に木蓮の知人ということで毎回丁寧な待遇を受けているのであった。

「今日は茶会でもらってきた餅児焼き餅もありますよ」

 姫棋は常依依に促され、出された餅児焼き餅を手に取ってみる。形は菊の花を模してあり、中には玫瑰ハマナスの花弁を練り込んだ餡がたっぷりと入っていた。

 一口食んでみると、甘酸っぱい香りが口いっぱいに広がる。

「おいしい……」

 玫瑰ハマナス餡の餅児焼き餅は他でも食べたことがあったが、これは皮の香ばしさと良い、玫瑰ハマナスの香り高さといい絶品だった。

 常依依は姫棋が来るたびにこうして美味しい食べ物を出してくれる。

「常様は美味しいものを本当によくご存じですね」

「そう? だったら嬉しいわ。侍女はそうでなくては務まりませんもの」

 妃嬪ひひんは頻繁に茶会を開くものだが、実質その茶会を取り仕切るのは侍女たちであった。

 そして茶会での客のもてなし方は、その妃嬪の評判に大きく影響する。

 時にはふらりと皇帝が参加することもあるので、上手くやれば皇帝の寵愛を得る機会ともなるのだ。つまり侍女の腕は妃嬪たちにとって自らの運命を左右するもの。

 そしてこれは茶会に限ったことではない。

 妃嬪たちが後宮での熾烈な闘いを生き抜くためには、時には鉾となり盾となって彼女たちを支えてうれる侍女が必要不可欠なのだ。

 よって優秀な侍女は、他の妃嬪に高額で買収されることも珍しくなかったのである。

(常依依が引く手あまたというのは納得だな)

 常依依のところには妃嬪たちから数多くの申し入れが舞い込んでいるらしい。だが彼女はどれほど金を積まれ甘い言葉をかけられても、けっして楊凛ようりん妃から離れようとしなかったという。

 自分の主は楊凛ようりん妃だけだと。

 常依依はひとえ楊凛ようりん妃への忠誠心だけで、金も名誉も突っぱねてきたのである。

 その忠誠心は、常依依の侍女としての評判をさらに押し上げることになった。

(でも、その強い忠誠心を持っていたからこそ、于計のことも見捨てられなかったのかな)

 飲んだくれのどうしようもない男だったという于計。その于計との縁談を破棄しなかったのは、彼女は、自分なら于計を救えると思っていたのではないだろうか。

 皇帝から寵愛を受けていなかった楊凛妃と同じく、うだつの上がらない于計を、自分の力で羽ばたかせてみせる、と。

「常様は、于計殿とはいつお知合いになられたのですか?」

 姫棋は常依依が淹れてくれた普洱茶プーアール茶を受け取りながら尋ねた。

「于計とは物心ついたころから互いに知っていました。直接血は繋がっておりませんが、母方の親族なんですの。それに生まれ年も同じでしたから」

「なるほど。幼馴染でいらっしゃったのですね」

「彼は少し頼りないところもありましたが、とても心根の優しい人でした。困ってる人を見ると放っておけない性質たちで。自分のことより、他人のために一所懸命になってしまう人だったんです」

 聞いていた于計の人柄とはずいぶん違う気がしたが、姫棋はそれについては突っ込まないことにした。

 一方、常依依は普洱茶プーアール茶の入ったカップを両手で握りしめ、その水面を見つめていた。まるで水面に遠い過去が映っているとでもいうように、優しく目を細める。

「彼の実家の近くに、青芥子あおけしの花が咲く丘がありますの。春になると、よく二人でその花を見に行きました」

 姫棋は黙ったまま静かに頷く。

「そこへ行くと必ず、彼は夢を語ってくれるんです。自分は官吏になって、この国をもっと豊かにするんだって。そんな大きな夢を」

 やはり木蓮から聞いた于計とは別人のようにすら思えた。ひょっとすると于計が酒におぼれだしたのは官吏になってから、ということなのだろうか。

「宮廷に上がられたのも、お二人同じ頃だったのですか?」

 そのとき、わずかだったが常依依の顔が曇った。

「いえ、私のほうが随分早く宮廷へ上がりました。私は侍女ですから科挙は受けておりせんし、于計は……科挙に合格するまでに十年かかりましたので」

 科挙通過まで何年もかかるというのはよくある話だが、許嫁としてそれを待っているのは、さぞかし気を揉んだことだろう。

「お辛かったでしょう。十年待ち続けるというのは」

「辛くなかったといえば嘘になります。でも本当に辛かったのは、于計自身です。私、私は彼を……」

 常依依は、口を押えてうつむいた。ぽたり。彼女の膝が濡れる。次第に彼女の声に嗚咽が混じりはじめた。

(ここで……)

 彼が官吏になってからのことを聞いたら、彼女はまた怒り出すだろうか。十年も待ち続けた許嫁がせっかく官吏になったのに、その後酒におぼれてしまったなんて人に話したくないだろう。

 だが、今聞かなければこの先もう聞く機会はない気がした。

 きっとこのままでも于計を描くことはできる。でもそれでは駄目なのだ。本当に常依依が望んでいる絵を描くには、ここから一歩踏み入らなくてはならない。

 心の表層を撫でるだけの絵は、描きたくない。

 絵とは、たぶん心の底に渦巻く感情を映すもの。そして絵師はその心をすくいあげ、画紙に表す者。

 たとえその心がどれほど暗く淀んでいようと、その中に飛び込まなくてはならない。

「常様。たぶんあなたにとって于計殿のことを話すのは辛いと思います。でも私は、彼が刑部の牢に入れられることになった、その顛末までお聞きしたいと思っています。そうでなくては、あなたの望む絵は描けないから」

 顔を上げた常依依は困惑した表情をしていた。葛藤があるのだろう。無理もない。ついこの前知り合ったばかりの絵師に、家族にも等しい者の汚点を曝せというのだから。

「そ、それは……どうしても?」

「はい、どうしてもです。あなたのお話がたとえどのようなものだったとしても、私はけっしてあなたから逃げません」

 姫棋は常依依の目を真っすぐに見つめ言った。

 常依依はじっと姫棋の瞳を見つめ返していたが、唇をぐっと噛み締めると、はらはらと涙をこぼした。

「私が于計を殺したのです」

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