月光
「大丈夫か? 木蓮」
ゆっくり身体を起こした木蓮の顔は、青白い月光のせいか随分と顔色が悪く見えた。
まだ意識がはっきりしないようで、ぼうっとしている。
姫棋は木蓮の
姫棋は、木蓮がどこかで頭でも打ったのかと心配になったが、見る限り外傷はなさそうである。
(寝不足かな)
と勝手に納得したところで、また、どこからともなく不気味な声が聞こえてきた。
「ううっ……うっううぅ――」
その声に、木蓮はハッとした様子で立ち上がったかと思えば、ブツブツ呟きながら東棟の端へそそくさと歩いて行ってしまった。
姫棋は一瞬、追いかけるか迷ったものの、一人になるよりましだと判断し木蓮の後を追った。
姫棋と木蓮が東棟の小部屋に入ると、聞こえていた泣き声が大きくなる。どうやら声の主はこの部屋にいるようだ。
木蓮が灯籠をかざして部屋の中を照らすと、卓の下で何か動いた。
姫棋は思わず声を上げそうになり、口を両手で抑える。木蓮はそんな姫棋に構わず卓の下を覗いた。
「
卓の下にいたのは、高級な絹の深衣を着た子どもだった。彼は眩しそうに顔を上げる。ずいぶん泣いたのだろう、その顔は真っ赤に腫れていたが、幼いながらに精悍な顔つきであった。
「そなたたち、何者だ?」
犁皇子は真っ赤な目で、木蓮と姫棋を交互に睨みつけた。
「私は理部の官吏です。犁皇子、ここへは誰かに連れてこられたのですか?」
「……じぶんで、来た」
「どうしてこんなところに。さあ、帰りましょう皇子。皆あなたを探していますよ」
「うそだ。だれも、わたしのことなんか探してない」
「いいえ、後宮は今大騒ぎですよ。みんな皇子の身を心配しています」
木蓮が皇子の身体を抱きかかえて卓の下から引っ張り出そうとすると、皇子は卓の脚にしがみついて抵抗した。もろくなった卓はぐらぐらと揺れ、今にも崩れそうである。姫棋は思わず揺れる卓を手で抑えた。
さすがに皇子に怪我をさせるわけにはいかないと思ったのだろう、木蓮は皇子から手を離し、溜息を吐きながら立ち上がった。
「どうして帰りたくないのです」
木蓮の声は少し苛立っているように思えた。
「なぜ帰らないとだめなんだ!」
「あなたが帰らないと、陛下も、
犁皇子は、ふんっと鼻で笑った。
「そなたは、なにも知らないんだな。母上は私のことなんて気にしてない。父上だって他のおうじがいれば、べつにいいんだ」
姫棋は二人の会話を聞きながら、犁皇子の母、
姫棋は、しゃがんで
「皇子、寂しいんですね」
その言葉に、犁皇子は大きく目を見開いたかと思うと、姫棋をぽかぽかと殴りだした。
「ぶれいもの! わたしを、だれだと、思ってる!」
「無礼は承知ですが、皇子だってわたしだって同じ人間なんですよ。寂しいという気持ちは皆一緒だ」
そう言って姫棋は、懐から
姫棋は矢立から筆を取りだし、犁皇子に尋ねる。
「
「……望むって、そんなのない」
「ええ? せっかく皇子のお望みのものを描いて差し上げようと思ったのに、ないんですか」
「絵なんか! そんなのあったって意味ない」
「そうですか。わたしは何でも描ける、すごぉい絵師なんだけどなあ。皇子がいらないとおっしゃるなら、仕方ないですね」
そう言いながら姫棋が立ち上がろうとすると、ぐんと袖が引っ張られる。
「ま、まって。いらない、とは言ってない」
姫棋はふっと微笑んで、また皇子の隣に座った。
「じゃあわたしが、
姫棋はその場で一枚、絵を描き上げた。
描いている間、犁皇子と、そしてまだ青白い顔のままの木蓮も、じっと姫棋の手元を見ていた。
皇子が望んだのは、
墨の濃淡だけで描いたものだったが、
「お気に召しました?」
姫棋は、渡した絵をぎゅっと握りしめている犁皇子に尋ねる。
「……へたくそ」
「なら返してもらおうかな」
「だめっ」
姫棋と木蓮は、役所群にある刑部殿まで
本当なら、後宮にある
犁皇子は、姫棋も一緒に行くという条件つきで、刑部までの同行を承諾した。
無事犁皇子を刑部に引き渡した後、木蓮は夜遅いからと言って後宮まで送ってくれるという。
のはよかったのだが、先ほどから木蓮は黙ったまま何も話さない。元々、口数の多い男ではないが、ここまでだんまりなのも珍しかった。
(疲れているなら一人でもよかったのに)
そう思いながら姫棋も黙って歩いていた。
さすがにこの季節になると、夜の風は冷たかった。早く暖かい布団の中に潜り込みたい。
後宮の門が見えてきたところで、姫棋が、じゃあと走り出そうとすると、ぐんと袖を引っ張られた。
振り返ると、木蓮が姫棋の袖をつかんでいる。姫棋は首を傾げ問うた。
「どうしたの?」
「あ、うん……」
木蓮は口を開きかけたが、またすぐに唇を一つに結んで黙り込んでしまった。
こういう時の木蓮は、たぶん自分の感情を伝えようとしている。のだと思う。
他のどんなことも理路整然と説明するくせに、どうも自分の感情だけはうまく言葉にできないらしいのだ。
もどかしそうに、ためらって、また飲み込む。
そんな木蓮に、冷たい月光が降りそそいでいた。
だからなのか、彼が頬に触れてきたとき、その指先はやけに冷たかった。
木蓮の香りがする、と思ったときはもう唇が重なった後だった。
どうしてか、胸の奥がぎゅっとつかまれたように苦しい。
どれくらい時間が過ぎたのか分からない。
色んな疑問が湧き上がってくる。
でも。
――そんな顔をされたら。
何もいえないだろう。
唇が離れたあとの彼の頬は、あの皇子のように濡れていた。
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