牡丹殿2
市場の裏通り、その脇道にある「丹丹」で姫棋は木蓮に牡丹殿での調査結果を報告していた。
今回も、以前木蓮とここへ来たときに入った部屋と同じ部屋に通された。ただ前回と違うのは、丸窓の外が気持ちよすぎるくらい晴れているということだろう。
そして姫棋はまたもや
「私も実際に風呂場を見られればいいんだが。さすがに妃嬪殿の風呂には入れないしなあ」
「そりゃあ男がそんなところ入ったら殺されるよ」
姫棋は口をもぐもぐさせながら答えた。
「でもおそらく風呂場に原因があるはずなんだ。牡丹殿の風呂場を改修してから、侍女たちの体調不良がはじまっているから」
木蓮は卓の上に広げた牡丹殿の設計図案を指で叩きながら言った。どうやら設計図案は理部殿の書庫に保管してあったらしい。他にも医官から診療記録を聞いてきたりと、木蓮は木蓮で侍女たちの病の原因を探ろうと動いていたのだ。
「他になにか変わったことはなかったか? 何でもいい。違和感や他と違うもの」
聞かれて姫棋は、牡丹殿の風呂場を思い浮かべた。
「緻密な幾何学模様が描かれていたのは珍しいと思う。まあ西方ではよく使われる模様だけど、もしかしてあれが呪いの呪文だったのかな」
「呪いで人は病にならない」
ぴしゃりと言われてしまった。姫棋は
「でも他に変わったところっていったら、全面緑に塗られていたことくらいだよ」
「緑? 使われている顔料の種類は分かるか?」
「それは断言できないけど、たぶんあの鮮やかさは……
そのとき、木蓮が勢いよく立ち上がった。
「
木蓮がむんずと姫棋の両肩をつかんで揺さぶる。
「え? 別になんともないけど。
「ダメに決まってる! あれはヒ素を含むんだ」
「ひそ?」
「そう、猛毒だよ。この国では使用が禁止されたはずなのに……。しかも風呂場となるとさらによくない」
姫棋はそこであることを思い出した。あの風呂場の模様はおそらくこの国の者が描いたのではない。異国の絵師を呼んで描かせたものだ。となれば、この国で
「なるほど、異国の絵師か。ありうるな。なんにしても姫棋、あの風呂に絵を描くのは中止だ」
〇〇〇
姫棋は再び、牡丹殿にやってきていた。
侍女たちの病の原因が、
「まさか顔料に毒が入っていたなんて思わなかったわぁ」
崙崙妃は驚くといより納得という雰囲気で言った。
「はい。私も意外でした。ただそのせいで、もうあの風呂場に絵を描かせていただくことはできなくなりました」
「もちろん。風呂は解体させなくてはね。でも絵は別に風呂でなくても描けるでしょう? どこでも好きなところに描いてくれればいいわぁ」
崙崙妃はそう言ってにっこり微笑んでくる。
せっかく絵が描ける機会なのだから嬉しいはずなのだが、今回だけはさすがの姫棋も逃げ出したい気持ちが半分くらいあった。
それでも彼女の無言の圧に勝てるはずもなく。姫棋は静かに首を縦に振った。
そして三日後、姫棋は崙崙妃の部屋へ絵を描きにやってきた。
もう何を描くかは決めてあった。さっそく持ち込んだ画材を広げ、作業に集中する。たとえ後ろでじいっと崙崙妃が見つめていようと、絵を描きはじめてしまえば気にはならない。飲まず食わずぶっ通しで描き続け、絵が仕上がったのは夕陽が沈みかけているころだった。
姫棋が部屋の一郭に描き上げた大きな絵。
それは仄暗い闇に浮かび上がる、一輪の牡丹であった。
闇にあって、その闇を溶かすように咲き誇る牡丹。
今にも飛びだしてきそうなその牡丹を、崙崙妃はひどく気に入ってくれた。
「なるほどねぇ。これは蔡次官の気持ちも分かるわぁ」
そう言って崙崙妃は懐から一通の文をとりだした。
「蔡次官ねぇ。あのあと文をくださったのよ。絶対あなたに風呂場の絵は描かせないようにって、それはもうくどくど書かれていたわぁ。蔡次官ってさっぱりしたお方だと思ってたのに意外よねぇ」
「蔡次官は理学のことになると熱くなるんです」
「あらそう。でもそれだけかしら?」
崙崙妃はまた含みのある笑みを向けてくる。姫棋は彼女の瞳に引きずり込まれそうでなんだか落ち着かなかった。
一方の崙崙妃は優雅に
姫棋は躊躇したが、上級妃から逃げられるはずもない。少し彼女から距離をおいて座った。
「ところで、私の下で働く件は考えてくれた?」
「申し訳ありませんが。それはお受けできません」
「どうして? 私はあなたが絵を描きたいと言うなら好きなだけ描かせてあげるわよぉ。お金もあるわぁ。画材だって望むものを買ってあげる」
姫棋はその問いには答えず黙って自分の手を見つめていた。
「蔡次官と一緒にいたい?」
「彼には、恩があります。絵など到底描けないほど貧しかったとき、助けてくれたのが蔡次官だったんです」
「そうだったの」
「それに、彼に絵を売ってくれと頼んだのは私です。どれだけ良い条件を出されても、彼以外と絵の仕事をする気はありません」
崙崙妃はふうと息を吐いた。
「なら仕方ないわねぇ。諦めるわぁ。ものすごく欲しいけど、ね。尚食局の子ねずみさん?」
姫棋はばっと顔を上げ、崙崙妃の顔を見た。
「いつから知って……」
「あなたたち二人には、何か秘密があるんでしょう」
姫棋がどぎまぎしていると、崙崙妃はにこっと微笑んだ。
「でも私、誰にも言ったりしないわぁ。だって人は、秘密を持つことで輝くんだから。ね?」
本当に食えないお人である。これはきっと皇帝もかなうまい。
と思いながら、姫棋はそっと崙崙妃に微笑みかえした。
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