牡丹殿1

 まだ少し蒸し暑さの残る風をうけながら、姫棋は妃嬪殿の一つ、牡丹殿に向かっていた。

 その殿にまつわる噂の調査を、木蓮から依頼されたのである。


 玉蟾宮ぎょくせんぐうにも近い、後宮の最も華やかなところにある牡丹殿はその名に違わず艶やかな殿であった。

 そしてその主もまた、美しく迫力のある妃である。

 女にしては大柄な体躯、こぼれ落ちんばかりの胸にひらひらと華やかな襦裙。まさしく大輪の牡丹のようだ。

「いらっしゃぁい! あなたが蔡次官に送り込まれてきた間者ね!」

 大輪牡丹、崙崙ろんろん妃は明るい声で言った。

 はたして声色か言葉、どちらが本心なのだろう。

 姫棋は黙って頭を下げるだけにしておいた。こういう人には余計なことを言うとあげ足を取られかねない。

「あら、大人しい子なのねえ。ああっ。その仮面、早く剥がしたいわぁ」

 姫棋はちらと目を上げてみる。途端、彼女と目が合い慌てて下を向いた。

 一瞬、闇に吸い込まれるかと思った。それほどに暗く淀んだ瞳だった。

「ま、何にしても、蔡次官の申し出はありがたく受けなくてはねぇ」

 明るく言って崙崙ろんろん妃が侍女を呼ぶ。

「この者に案内をさせるから。気のすむまで見てくるといいわぁ」

 侍女に連れられ、姫棋は部屋を出た。

 外に出た彼女は思わず吐息をもらす。

 今回木蓮に頼まれた依頼というのは、この牡丹殿にある風呂、そこに描かれた絵を見てきて欲しいというものだった。

 絵に関係すること言われ二つ返事で受けたものの、これはなかなか厄介なことになりそうな予感がした。

「こちらになります」

 侍女が案内してくれたのは普段、崙崙ろんろん妃の侍女たちが使っていた風呂である。

「わたくしは外でお待ちしておりますので、終わられましたらお声かけ下さい」

 今回姫棋は簡単な変装をして「絵師」としてここへ潜入していた。いつも姫棋は厨にこもりっきりなので、少しばかり化粧をして宮女の衣装を脱いでしまえば、彼女が宮女だと分かるものはいないのだ。

 姫棋は侍女に頷き返すと、さっそく風呂場の中に入る。

「うわ」

 風呂場は、一面鮮やかな緑に塗られていた。

 さらに四方から天井、床まで、恐ろしく緻密な幾何学模様が描かれている。これははるか西の国でよく用いられるものだ。そこでは偶像崇拝が禁止されているので、絵ではなくこのような模様が発達したのだという。

 中原でも見ない模様ではないが、これほど精巧なものを見るのは姫棋も初めてだった。相当腕のいい絵師に仕事をさせたに違いない。

「でもこれが呪いになるかな」

 姫棋がこの牡丹殿に派遣されたのは、牡丹殿の風呂場にある絵が呪われているという話があったからだ。

 最近、崙崙ろんろん妃の侍女たちが次々と体調不良を起こしており、その侍女たちは全員、この風呂を使うものばかりであったらしい。

 これはきっとその風呂に描かれた絵が、侍女たちを呪っているに違いない。

 噂を聞きつけた木蓮が姫棋に調査を依頼したというわけだ。

 木蓮からは「本当に呪われた絵があったらその上から違う絵を描いたらどうだ」と言われてきたのだが、そもそも絵自体がないなら呪いもなにもないだろう。

 とりあえず一旦戻って、崙崙妃と相談だ。

 姫棋は再び侍女に連れられ崙崙妃の待つ部屋へ戻った。

「早かったわねえ」

 崙崙妃は、侍女に手をもみほぐしてもらっているところだった。甘い香りの油を、侍女が丁寧に崙崙妃の手にすりこんでいる。

「呪いは見つけられたのかしら?」

 崙崙妃は愉快気に微笑む。

「いえ。絵があると聞いていたのですが、そもそも絵自体がありませんでした」

 崙崙妃はふふっと虚ろに笑った。

「だからそんなものないと言っているのに。ほんとひどい話よねぇ。あなたは知ってるかしら。宮廷で今、私がなんと言われているか」

「いいえ。存じておりません」

 すると崙崙妃は、哀れとばかりに自分の頬をさする。

「みんなね、私を姑獲鳥かこちょうだなんていうのよぉ。私は自分の侍女を呪ったりしないのにねぇ」

 姑獲鳥とは、子どもを攫ってきては子に呪いをかけ病気にするという妖である。

 崙崙妃は気に入った女がいるとすぐに自分の元へ引き込んでいるというから、最近その侍女たちが謎の病に侵されているとなれば、そう揶揄するものもいるのだろう。

「蔡次官は崙崙妃様を疑っているわけではありません。ただあなた方のことを思って私を派遣されたのです。上から他の絵を描いてしまえば、呪いの効果も薄れるでしょうから」

 と崙崙妃は急に声高らかに笑い出した。

「それは違うわぁ」

 姫棋が首を傾げる。

「蔡次官はねぇ、きっと、この件に首を突っ込んできたのよぉ」

 崙崙妃は侍女に指示して葡萄酒を持ってこさせる。それを一口飲んで仄暗い笑みを浮かべながら続けた。

「私はね、侍女たちのことを医官に相談していたの。そうしたら、噂を聞きつけた蔡次官が横やりを入れてきたわ。腕利きの絵師を知っているからその者を寄越しましょう、とね」

 崙崙妃は、グラスを持っていない方の手で、侍女の頭を慈しむように撫でていた。

「最初はどうして、彼がそんなことを言いだしたのか分からなかったわ。呪いなんか一番信じてないお人なのに。でも……」

 撫でられている侍女は、飼い猫のようにうっとりと主人を見上げていた。

「あなたに絵を描かせたかったわけねぇ。だから呪いを祓いましょう、なんて柄にもないこと言ってまであたたを寄越したんだわぁ」

 崙崙妃は何がそんなに楽しいのか愉快気に微笑んでいる。

「彼がそこまでするなんて。あなたはいったい蔡次官の何なのかしら?」

 姫棋は崙崙妃と侍女のただならぬ雰囲気を見てみぬふりしながら答えた。

「何、と言われましても。私の描く絵を売っていただいているだけです」

「あらそう。じゃあ、私があなたの主人になっても、蔡次官は怒らないのかしらね」

 そう言いながら崙崙妃はゆっくり立ち上がった。そして姫棋の元へ近づいてくる。

 先ほど侍女を撫でていた手が、今度は姫棋に伸びてきた。

「あなたのような小姐むすめ、うちに欲しかったのよぉ」

 甘い香りのする柔らかい手が、するすると姫棋の頬をすべっていった。

「ね? 蔡次官のところなんかやめて、私のもとへきなさいな」

 そう耳元でささやかれ、姫棋は戦慄した。

 自国の後宮でもそれなりに修羅場をくぐってきたつもりだったが、そのなかでもこれは上位に入る危機だ。

 女色の女官や妃などいくらでもいる。しかし彼女は皇帝の寵姫でもある。女色家でありながら、皇帝の寵愛も得ている女はそういない。もし女たちへの愛ゆえに皇帝の寵愛を勝ち得ているというなら、とんだ食わせ者である。

「とりあえず風呂の絵は、あなたが描きたいなら描いてもいいわぁ」

 崙崙妃はすっと立ち上がった。 

「私も蔡次官がそれほどまでに心惹かれる絵を見てみたいしね」

「ですが…」

 姫棋は躊躇う。絵を描かせてくれるならありがたい話だが、はたしてただ絵を描くだけで済むだろうか。

 そんな姫棋を見透かしてか、崙崙妃がふふっと笑う。

「大丈夫よぉ。絵を描いたって無理やり侍女になんかしないわ。それとこれは別と考えて」

 そして姫棋は牡丹殿から帰された。無理強いするつもりはないということを伝えたいのだろう。

「蔡次官とも相談してまたいらっしゃぁい」

 

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