後宮に入った少年

 外は、雨が降りはじめたようだった。

 姮娥こうがもそれに気づいたらしく、窓の向こうを見つめながらおもむろに話しはじめる。

「あれは、十六年前になるかの。まだ五つの木蓮が、母に連れられこの宮廷にやってきたのは」

「なぜ、そんな幼いころに宮廷へ?」

「まあ、そう焦るでない。順を追って話してやる」

 姮娥は一呼吸おいて、話を続ける。

「あやつの母は芸妓での。彼女はその日、宮妓として初登廷することになっておった」

 宮妓というのは、宮廷に専属で仕える芸妓のことである。彼女たちは宮城内で暮らし、宴や催しものが行われる際に、舞や音楽で皇帝や妃嬪たちを楽しませる。

「じゃが彼女は、その初登廷の日。宮廷に姿を見せるなり、陛下に自分の息子を買わないか、と言い出しおった」

「え? 宮妓が、陛下に自分の子を?」

「そうじゃ。しかも陛下は彼女の提案を受け入れおった。その後、彼女は自分の息子と引き換えに、宮妓が一生かかっても手に入れられぬ金を持って姿をくらましたのじゃ」

 姫棋は混乱していた。なぜ皇帝はそんな提案を受け入れたのか。それに本来、宮妓など皇帝と直接言葉を交わせる立場にないはずである。

「蔡次官の母上はどうやって、そんなことを陛下に申し上げたのですか? まさか、蔡次官は陛下の……?」

 宮妓の身分というのは、宮女とさして変わらない。そんな者が陛下に何か提案できるような立場になるには、陛下のお手付きになることくらいしか考えられなかった。

「ん? 木蓮が陛下の子だと言いたいのか? なら、それは勘違いじゃ。木蓮の母と陛下が会うたのは、その日が初めてじゃったからの。あり得ぬことじゃ」

「ですが、そうなると一宮妓が陛下とお話しをする機会などあるのですか? 宮妓が一人新しく入ったからといって、陛下が直々に会われることなど普通ないのでは」

 姮娥は、賀紹がしょうの顔をちらりと見、そしてまた姫棋に目線を戻した。

「そなた、蔡夭さいよう、という名を聞いたことがあるか?」

「はい。有名な詩人ですから。それに筝の……」

 あ、と姫棋はいつかの話を思いだす。

「木蓮の母はな、その蔡夭さいようなのじゃ」

 蔡夭さいようは、異国出身の姫棋でも知っているほどの有名人だった。彼女の作った詩や曲は姫棋の国でも高い評価を受けており、また恐ろしく美人ということもあって、各国で名を馳せた芸妓であった。

 しかし、彼女は、ある日を境に忽然と表舞台から姿を消している。

蔡夭さいようは、宮妓になることをずっと拒んでおったのじゃが、ある日突然承諾しおっての。まあ、最初から木蓮を陛下に売りつけるのが目的で承諾したのじゃろうな」

 姮娥は両手で杯をゆっくり回しながら、その中身を見つめていた。

「陛下はの、唯才主義的な思想をもっている方でな。国を豊かにするには、出自より才能を重んじた人事をしようという考えなのじゃ。蔡夭はそこをうまくついた。自分の息子には天賦の才がある。この才を逃せば国の行く末は傾き、陛下は後々必ず後悔する、とまで言うた。まあ、あの蔡夭にかかれば、そのころまだ二十すぎの若造じゃった陛下など、手の上の石ころ同然よ」

 陛下に対してずいぶん不敬な物言いだが、姮娥にとって陛下は甥御。赤ん坊のころから見ていれば、陛下ですら、姮娥にとっては可愛い男の一人なのだろう。

「ただでさえ蔡夭は弁が立つうえに、木蓮は陛下の前で『算経論書』をそらんじてしまいおってのう。あやつは、まさか自分が売られることになるとは思っていなかったのじゃろうの。結局それが決め手となって、陛下は蔡夭の提案を受け入れることにしたのじゃ」

 姮娥は長い溜息をはき出した。

「じゃが陛下も木蓮を買ったはいいものの、その処遇をどうするか考えておらなんだ。芸妓の息子を養子に迎えるわけにもいかん。木蓮の置き場に困った陛下は、わらわのところへ相談しにきおった。面倒を見てくれぬかとな。わしは皇籍から外れておるし、都合が良いと思ったのじゃろう」

「それで姮娥様が蔡次官の母親代わりになられたということですね」

「じゃがのう、皇子でもない男子おのこを、後宮内で育てるというのは目立つじゃろ? じゃからな、わらわは木蓮を女子おなごとして育てることにしたんじゃ」

「は?」

「我ながら良い思いつきじゃった。女子なら後宮に山ほどおるでのう。宮女に紛れさせておけば誰も気にせん。しかも、幼い木蓮に女の襦裙を着せてみると、これがまた可愛らしゅうてのう」

 そう言って姮娥はにんまり微笑んだ。

 なんと。木蓮を守るためとはいえ、女として育てるというのはいかがなものだろう。というか、これは姮娥の趣味も多分に含まれている気がしないでもない。

 それに、規律に厳しい賀紹ならこんなこと絶対反対しただろう。いくら木蓮が綺麗な顔をしているからといって、男子を宮女に紛れさせておくなんて無謀だ。

 と姫棋は、こっそり賀紹がしょうの顔をのぞいてみる。

 すると、どうしたことか、賀紹はぽっと頬を染めていた。

「若緑の襦裙など着ておられた姿は、ほんに可愛らしゅうございましたね」

 どうやら賀紹も共犯だったらしい。

(でもそういえば……)

 姫棋は、木蓮が毒見紙や洗濯糊をつくっていたことを思いだした。木蓮は幼い頃に宮女の仕事を間近で見てきたのだ。だから宮女の仕事に役立つ物を、色々と作っているのかもしれない。

「蔡次官にとっても、後宮での暮らしは良い経験だったのかもしれませんね……」

 姮娥は、そうじゃのう、とまた過去に思いを馳せる。

「じゃが女子の恰好をさせると言うも限界があるでの。ほれ、背も伸びれば声も変わる。結局、あやつは十三で外廷入りすることになったんじゃ」

「でも確か科挙を受けられるのは十七からのはずではありませんか?」

「そうじゃ。しかし陛下がのう、あやつを内廷から出すならすぐに官吏にするというて、きかなくての。まあ最初からそのつもりで蔡夭から買ったのじゃからな」

「では蔡次官は科挙を受けずに官吏に?」

「それが、そうでもないのじゃ」

 姮娥が言うには、皇帝が木蓮を官吏にしようとしたとき、部が猛反発したのだという。

 それもそのはず、吏部は科挙を取り仕切る部署であるので、科挙を受けずに官吏になったものがいるとなれば吏部の面子は丸つぶれだ。

 実際は、裏工作によって科挙を受けず官吏なる者も少なからずいるのが現実である。しかし表立って、しかもまだ十三の子どもを官吏にするなど、到底吏部としては認められるものではなかった。

 そこで当時の吏部長官が、木蓮の科挙受験を半ば強引に決行した。科挙など子どもが突破できるものではない。吏部は科挙不合格を理由に木蓮の官吏登用をはねつける目論みであった。

 しかし結果として、木蓮はその年の主席を上回る得点を取得した。これにより吏部は木蓮の官吏登用を認めたが、当該年齢に達していなかったとして、科挙実施録に木蓮の名は載せなかったのである。

「ひどい話ですね」

「うむ。その後のあやつはそれこそ死に物狂いな様相じゃった。神童など、大人になってみれば凡人ということはよくある話じゃからな」

 皇子でない彼は、皇帝に無能と判断されれば簡単に捨てられる身分だった。いくら才に恵まれていたとはいえ、自分の価値を証明するために彼がした努力はきっと並みのことではなかっただろう。

 姮娥と賀紹の表情からも、何となくそんな様子がうかがえた。

「蔡次官はきっと苦労されたのでしょうね」

「そうじゃ。官吏になってからのあやつは、憑りつかれたように仕事をしておったの」

 姮娥が茶を飲み干したので代わりを用意しようと姫棋が立ち上がりかけると、賀紹がそれを制した。彼女は何も言わなかったが、姮娥の相手をしていろと言われた気がした。

「じゃからな。木蓮がそなたの絵のことを言うてきたときは、正直驚いた。そもそも木蓮が理学のこと以外に興味を示すことも今までなかったからの。それほどそなたの絵が気に入ったようじゃった」

 姫棋は微笑む。

「ありがたいことです」

 本心だった。

 木蓮がいなければ、今頃あの屋敷でどうなっていたかなど想像もしたくない。こうやって姮娥の庇護のもと絵が描けているのは全て、彼のおかげなのだ。

 姫棋が木蓮のことを考えていると、賀紹が戻ってきて姮娥の杯に茶を注いだ。

「ついつい長居してしもうたの」

「たまには宮女とお話しなさるのも良いことです」

「そうじゃな。宮女の様子をうかがうのも、わしの役目じゃからの」

 姮娥と賀紹はなにやら満足げに微笑み合っていた。


 姮娥を部屋の入り口まで送る際、ふいに姮娥が姫棋をふり返る。

「つかぬことを聞くが……」

 姫棋は、はいと首を傾げる。

「わしが来る前に、誰かここへ来たか?」

 姫棋はぎくりとした。が、今日は《・・・》誰も来ていないのは確かだ。

 そう自分に言い聞かせ平静を装う。

「いえ? 誰も来ていませんが」

「ふむ。そうか」

 ならよい、と姮娥はまた呵々と笑い、賀紹を連れ帰っていった。

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