天象儀
展覧会三日目も四日目も、朝から雨が降り続いていた。そのせいで、外で行われる予定だった行事は全て中止となった。
(まるで慈雨だな)
これは木蓮にとって願ってもないことであった。予定がなくなった分の空き時間を利用して、足しげく冷宮に通う。
今まで木蓮にとってこの冷宮は忌まわしいものでしかなかったが、今はもう昔ほど嫌な場所ではなくなっていた。
木蓮はいそいそと、真っ黒な分厚い幕や、箱をいくつか冷宮の中に運び入れる。
雨の中一人でそれらを運ぶのはかなりの重労働だったが、ちっとも辛いとは感じなかった。
そんなことより彼の胸の中は、ある期待でいっぱいだったのである。
それは、自分自身に対する期待だった。
こんな風に思えるのは、木蓮にとって初めてのことでだった。
科挙で最高得点を取った時も、最年少で理部次官になった時も、喜びや肯定とはほど遠い感情しか持てなかった。
やって当たり前。むしろそれくらいのことをしなくては、この宮廷で生き残ることができなかったから。
これまで理学は、自分にとって生きるための手段でしかないと思っていた。目に見える結果を出すための、自分の存在価値を示すためのものだと。
だけど、果たしてそれだけだったのか。
ただ追い立てられていたというだけで、ここまでやってこられただろうか。
それだけじゃないはずだ。
そう、自分はきっと――。
◇ ◇ ◇
木蓮から文が来た。以前行った冷宮に来て欲しいという。
姫棋は落書きの犯人が分かったのか、とも思ったが、それを伝えるだけなら場所はどこでもいいだろう。
(何でわざわざ冷宮に)
と思いつつも行ってみなければ木蓮の意図は分からない。
姫棋はまた休憩時間にこっそり厨を抜け出した。今度は鈴明にだけは伝えてから行くことにした。理由までは言わなかったが、それでも彼女は少し長めに休憩してきても良いと言ってくれた。
どんよりした曇り空の下、姫棋は冷宮までの道のりを急いだ。
冷宮につくと、木蓮はもうすでに冷宮の前で待っていた。
「仕事抜けて大丈夫だったか?」
「うん、同僚が長めに休憩して良いって言ってくれたし」
「そうか、なら良かった」
木蓮はそして、見せたいものがあるから中に入ろうと言う。もしやまた犁皇子がかくれんぼでもしているのだろうか。
そんなことを考えながら姫棋は、木蓮の後について冷宮の中に入った。
冷宮の中は真っ暗だった。
今日は曇りとはいえまだ昼過ぎである。どうやら棟の窓に陽を遮る布がかけてあり、わざと暗くしてあるらしい。
木蓮は危ないからと言って、手をひいてくれた。
その手に導かれ、暗闇の中を進む。
不思議な感覚だった。
暗く
木蓮はそろそろ北棟に入るというところで、今度は目を瞑れと言ってきた。こんな暗いところで目をつむる必要性は分からなかったが言うとおりにしてみる。
また手を引かれて進んだ先で、すっと木蓮の手が離れた。ちょっと不安になって目を開けそうになるが、ぐっと我慢する。木蓮は近くで何やらごそごそしているようだ。
そしてすぐまた、彼が近くに戻って来たのが分かった。
「もう目を開けていいよ。上を見てみて」
言われた通り、姫棋は天を仰いでそっと瞼を開いた。
瞬間、目の前の光景に、言葉を失う。
頭上には、数え切れないほどの星が瞬いていた。
いや頭上だけではない。前も後ろも、星の煌めきに包まれていた。
まるで自分が星
中でも一際明るい、
「木蓮、これは……」
姫棋は漏れる吐息にまじえて問うた。
「少しでも、君の気が晴れるかなと」
そう答える木蓮の顔は少し不安そうな表情だった。
(わたしが落ち込んでいたから)
励まそうとしてくれたのだ。気持ちを伝えるのが苦手な彼が、いつもしんねりと心を隠してしまう彼が、それでも何とか伝えようと、この
「ありがとう」
姫棋が木蓮の顔を見上げて微笑むと、木蓮はちょっと照れくさそうに目を瞬いて、再び
そして、銀河は、と星に語りかけるように話しはじめる。
「月よりずっと遠くにある、星たちの集まりなんだ」
「月より、遠い?」
「そう。宇宙はものすごく広い空間で、その中にたくさんの星が浮かんでいるんだよ。私たちがいるこの世界も、その星の一つ。太陽だって月よりずっと遠くにあって、もっとずっと大きい」
「何でそんなことが分かるの?」
「半月が見えるときの太陽との位置関係から、おおよその距離が割り出せるんだよ」
姫棋にはその理屈も、本当に太陽が月より遠くにあるのかもよく分からなかった。だけど、自分の知らない世界があるのだと思うだけで、心が躍るような気分になる。
そう。いつだって木蓮は、自分の知らない、新しい世界を見せてくれる。
「そのことも、木蓮が見つけたの?」
姫棋が尋ねると、木蓮は少し驚いた顔をして、ふっと笑った。
「いや、これは千年以上も前に
そう言いながらまた
「まだ理学で解き明かせていることは、この世のほんの一部だけなんだ。私はそれを一つ一つ解いていきたいと思う」
そして木蓮は姫棋を穏やかな目で見つめる。
「君のようにはできないかもしれないけれど、私も自分のできることをやろうと思う。これしかできないからじゃなくて、私は理学で人を救いたいと思うから」
木蓮は、今までだってそうして人の幸せを祈ってきたはずだ。彼が創ってきたものは人々の役に立ってきた。理部の次官にまでなれたのも、けっして運や贔屓のおかげではない。
だけど、彼はそれを、自分で認めていなかった。
(気づいたんだな)
自分の好きなこと、やりたいことを。
それが、とても嬉しい。
自分のことのように、嬉しい。
木蓮はまた優しく手を握ってくれた。
そして穏やかに微笑む。
「姫棋。一緒になろうか」
彼の瞳は、凪いだ海のように静かでいて、その覚悟と意志の強さを、映しているようだった。
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