自覚のない彦星
「一緒になろう」
それはつまり妻になってほしいということ。
まさか自分にかけられることがあるとは、夢にも思っていなかった言葉。その言葉に、姫棋はどんな顔をしていいのか分からなかった。
誰かの妻になるなどこれまで一度も、考えたことすらなかったのである。
それでも何か返事をしなくては、と口を開きかけたとき。
宮殿の外が急に騒がしくなった。
なにやら不穏な気配。
さすがに無視できない騒々しさに木蓮が扉を開けて外に出た。姫棋も追って外に出る。
走っていく男を一人つかまえ何があったのかと問う。
「何って、火の手があがったんだよ! 尚食の方だ」
尚食局で起きた火事はすぐに消し止められたが、厨の一部が焼け焦げ使用できなくなってしまった。
おかげで尚食局は大混乱である。展覧会期間のただでさえ忙しい時期に火事まで起こしてしまっては、他局から宮女たちが助っ人に来たところで何の助けにもならないくらい、荒れていた。
姫棋もその混乱に巻き込まれ、結局あのあと木蓮とはぐれてしまったきりとなった。
◇ ◇ ◇
尚食局で火事があった翌日。
木蓮は、理部の長官室に呼ばれた。尚食局の様子を見に行こうと思っていたが、理部長官、
木蓮が理部長官室の扉を開けると、そこには執務机の向こうに座る
そんな彼女は、名を
「やあっと来たか、木
「その呼び方は辞めてください。もう私は、後宮にいた頃とは違うんですから」
「ははっ。そうだったな。今は陛下お気に入りの、天才次官様か」
木蓮は黙ったっまま、冷めたい目で
理部長官室の温度がすっと下がったようだった。
可哀そうなのは
「ちょっと
「なんだい、これくらい。ただの、あいさつじゃないか」
「要件があるなら手短にすませてもらえますか。陛下のお気に入り次官は、どこぞの次官と違って忙しいんです」
木蓮は
「ほう、言うようになったな」
その表紙には『彦星番付』との文字。
「何ですかこれは」
木蓮が厭わしそうに目を細めると、
「おいおい、お前さん『
また馬鹿にされたのかと思い木蓮はムッとしたが、どうやら
かといって
「
今度は木蓮が驚いた顔になる。
「どこの誰だったのですか?」
「吏部の奴らだ。お前さんに嫉妬して、腹いせにやったんだとよ」
「嫉妬って……まだ科挙のことをとやかく――」
これだよ、これ。と言いながら『彦星番付』と書かれた冊子を人差し指で叩く。
木蓮はその冊子を手に取って中を見てみた。
「これは……」
木蓮はパラパラと頁をかめくって、その冊子の正体を察した。
「最年少で次官になって、女からも人気ときちゃあ、嫉妬する奴もいるだろうさ」
そう言われても、木蓮にはあまり実感はなかった。
なぜなら木蓮は、
仮に話してみても、理学のことについて木蓮が語りだすとたいてい皆顔を引きつらせて逃げていくのだ。
そんなことで自分が
「落書きをした犯人たちはね、蔡君が女の子と歩いてるのを見て、からかってやろうと思ったんだって」
「なんて幼稚な」
そんなことで人の描いた絵に落書きするなど、官吏のすることだろうか。
「まあ彼らも酒が入っていたみたいだけどね」
孫幺が眉尻を下げてみせると、
「酒に酔っていたからって罪は軽くならん。奴らは降格し、地方に左遷してやるよ」
木蓮が内心ほっとしていると、
「だが、嫉妬していた相手がまさか『彦星番付』のことを知らなかったとはな。あいつら、肩透かしもいいところだろう」
そう言って
「蔡君はこういうの興味ないんだよ」
「なに言ってんだ。早く妻を娶らないからこんなことになってんだろ。陛下の女なんか探しに行ってる場合じゃないぞ」
おそらく
「あれは災難だったね。せっかく異国まで行ったのに、選ばれた
代わりに孫幺が相槌を打ってくれた。
「そう言う意味じゃ、今回のお迎え役は楽だな」
今回? その言葉にみぞおち辺りがきりと痛む。
「また陛下は妃嬪を迎えられるのですか?」
木蓮が早口で問いかけると、
「まだ内密な情報だけどな。次の妃嬪に選ばれたのはどうやらこの後宮にいる、宮女らしいぞ」
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