夏后国の真実
「わたしも、木蓮の話を聞きたい」
考えてみれば、木蓮のことを何一つ知らなかった。どんな家に生まれたのかも、どうやって生きてきたのかも。
「うん? 私は……。帝にこき使われる、しがない文官だ」
「それは知ってるよ。家族は?」
しばし、沈黙があった。
背を向けているので彼の表情は分からなかったが、何かが喉につかえてうまく声が出せない、そんな感じがした。
「父は知らないんだ。顔も、名前も。……母、は芸妓だった」
「芸妓?」
「ああ。
「今はどこに?」
「さあ、生きているか死んでいるかも分からない」
訳あり、ということなのだろう。芸妓の息子というだけである程度想像はつくが。
姫棋はてっきり、木蓮は貴族かそれに類するような家の子息だと思っていたので、彼の出自にやや面食らってしまった。
さらに聞いていいものか悩んだものの、今はこれ以上聞かないでおくことにした。
木蓮の声は、あまり聞かれたくないように響いた気がしたから。彼にもまた、触れられたくないものがあるのだろう。
代わりに違うことを聞いてみる。
「何で理部に入ったの?」
その問いにはすぐに返事が返ってきた。
「それしか能がなかったからだよ」
そこは理学が好きだったから、ではないのか。結局また答えをはぐらかされたようだ。ならば、質問の仕方を変えてみよう。
「この国はどうしてこんなに、理学が盛んなの?」
姫棋がこの夏后国に来て驚いたことはたくさんあったが、そのなかでも一番気になっていたのが、その高度な技術力だった。
最初にそれを感じたのは、紙の「質」とその「安さ」である。
姫棋の国で紙は高級品。庶民がおいそれと使える代物ではなかった。宮廷でさえ、多くは木簡や竹簡が使用されていたのだ。
だが、この国では宮女の給金でも紙が買える。
物が安くなるというのは、その理由の一つに流通量の多さがあげられるだろう。実際、この国では紙の、しかも質の良い紙の流通量が多い。となれば、それを支える生産技術が高いということ。そしてその土台となる理学が発達している証拠である。
その技術力も理学も、けっして他国には追いつけない代物のように思えた。
木蓮はその問いかけには答えず、黙ったまま何やらもぞもぞし出したかと思えば、急に部屋が明るくなった。
何事かと姫棋が振り返ってみると、木蓮は仰向けに戻って天井を見つめていた。
「上を見てごらん」
と促され、彼の視線を追って天井を見上げてみると――。
姫棋はひゅっと息を飲んだ。
蝋燭の薄明りに照らされ、ぼうっと浮かび上がる天井画が現れていたのである。
部屋に入った時は布団のことにばかり気を取られ、天井に描かれていた絵の存在など全く気がつかなかった。
「これ、は……」
天井には、神々しい神の姿と、その神から冠を授けられる男の様子が描かれていた。
「これは、
「千年? それじゃ、千年もこの国は続いてきたってこと?」
「そう。おそらく君の国では知られていないだろう。でも事実だ」
姫棋は絵から目を離して、木蓮の横顔を見つめた。
木蓮の話は冗談にしか思えなかったが、彼の顔は真剣だった。
「そんなことがありえるの? だって、千年てそんなの……」
一体何代続いてきたのだ。その血筋がもし脈々と受け継がれてきたというのなら、現皇帝は一体何代目になる? そんなに長い間、一つの王朝が滅びず国を守り続けることなどあり得るのだろうか。
「この国が長く続いてきたのは、地の利もあっただろう。山に囲まれていて、他国の侵略を阻みやすい場所にあるから」
それでも姫棋は木蓮の話が俄かには信じられなかった。
「最初の質問に戻るけど、夏后国で理学がこれほど発達したのは、この国が一度も戦火に焼かれたことがないからだよ」
「それは、どの時代の
そう。と木蓮は天井の絵を見つめながら続ける。
「どれほど優れた知識や文明があっても、国が滅びればその英知も失われる。戦ほど文明を衰退させるものはないんだよ」
そして木蓮の横顔はまたいつかのように、遠い夢に思いを馳せるような表情になる。
「この国では始祖の時代からずっと、先人の知恵を大切に受け継いで新しいものを生み出してきたんだ。特に理学に関しては、一人でなしえるものなんてごくわずかなんだよ。大発明と思われるものでも、そのほとんどが先人の教えを受け継いで発展させたものだ」
確かに、この世の
「この国の理学者はそれをよく、分かっている。『知』を守り…伝えることこそ、国を豊かにすると、信じている……から」
そう語る木蓮の目は、だんだんと眠そうに、瞬きが遅くなっていく。そして、すっと目を閉じてから寝息が聞こえてくるまでそう長くはかからなかった。
姫棋は木蓮が眠ってしまった後も、しばらく彼の横顔をじっと見つめていた。
(それしか能がなかったって言ったけど)
やっぱり木蓮は理学が、大好きなんだろうと思った。
でなければ、あんな夢見るような顔で理学のことを語ったりしない。
常衣衣の家で、于計の絵から
彼は、今まで紡がれてきた知識に誰よりも興味を持っていて、その知識を人のために使うことに喜びを感じる人間なのだ。
きっと理部に入ったのも、その次官にまで上ったのも、世の理を知り、新しいものを生み出してみたい。それをまた未来へつないでいきたい。そういう心の希求に、無意識に応えてきたからではないだろうか。
たとえそれを、彼自身が自覚していないとしても。
(どうして好きなものを好き、と言えないの)
木蓮の横顔を見つめながら、そんなことをぼんやり考えているうち、姫棋もいつの間にか夢の中へと落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます