第9話 憑き纏う影

 雑念を斬り払うように、身体からだに染み込んだ型に沿って、流れるままに剣を振るう。


 ——欠かしたことがない日課だった。


 物見高い野次馬は、切っ先が地に下ろされ、息を切らしていた頃に現れた。


 ——たいしたものだ、と。


 声に導かれるままに、俺はあごを上げた。上から見下ろす視線。底から湧き上がる対抗心。衝突は必至。死線を越える運命だった。


 ——果たして息は切れていたが。


「何か……用ですか?」

「何をしているか気になった」


「気になるようなことは……ありませんよ」

「そうか」


 立ち去る気がないことを察した瞬間、込み上げる対抗心に火がついた。


「ご指導……いただけませんか?」

「あいにくだが、剣は不得手だ」


 ——必要ないからな、というように。聞こえて腹が立った。否定された気がしたんだ。


 ——では。


「模擬戦闘に、お相手を」

「相手にならないが」


 ——良いだろう、と。


 太い枝に腰を据えていた彼女は、重心をずらして身体を前に押し出すと、そのまま枝から降りて着地した。


(……落ち着け)


 瞳を閉じて、呼吸を整える。身体が赴くままに、構えをとる。


 ——瞳を開いて、彼女を見据えた。


「……手加減抜きで」

「手足抜きで十分だ」


(……後悔するなよ)


 ——黒歴史にしてやるからな。


 頬を伝った汗が、肌からしたたり落ちる。覚悟を決めた。足に力を込めて飛び出し、残された全力を込めて腕を振り抜く。


(一撃で……決め……る)


 ——?


「其方が向き合うべき相手は」

(……足も腕も)


「オレではない」

(……動かないんだが?)


 ——いい加減、目を覚ませ。


「其方が向き合うべき相手は」

(……たいしたもんだと?)


「失われた英雄だ」

(……心にもないことを)


 ——いい加減、耳を傾けろ。


 金縛りを解く気がないことを察した瞬間、燻った対抗心が再び燃え上がった。


(……何だ? 動作を妨げる元凶それは……)


 ——集中しろ。


 向き合うべき相手は、小憎らしい彼女ではない。硬直した身体。研ぎ澄まされた感覚。導かれた視線は——足下に。


(……!)


 ——影。影だ。前に伸びる影から、得体も知れない気配がする。俺という人影に、何かが潜んでいる。底知れない何かが。


 これから俺に。俺が。俺を。


 ——呑み込もうとしている?



 ゾッ



 ——と背筋が冷えた。


「ゲゲ」


 ふっと緊張が緩み、力が抜ける。憑き物が落ちたような脱力感。とっさに剣を地面に突き刺し、膝をついて身体を支える。


 ——!


 俺に憑き纏う影から——影が盛り上がるように——ひょこっと顔を覗かせた。


(……?)


 つぶらな瞳に目が合った瞬間——視線を避けるように——ひゅんと沈み去っていった。


「人見知りなんだ」


 拍子抜けしている俺に、彼女はあっけらかんと呟いた。和やかな表情を浮かべて。


 ——妙だ。


「なぜ影霊コイツを……貴女あんたが使役している?」


 ——結局。


(……元凶それは貴女?)


 茫然自失——気が抜けた声で答えを乞う。


「使役」


 ——ではないよ、と。


 和らいだ口調に身構える。得体も知れない彼女と向き合うなんて。俺は一体。


 ——どうかしていたんだ。


「彼も霊体レイタイとはいえ、同じ人格ジンカクを保っている生き物だから」


 ——友人を邪険に扱うな、というように。


 さとすような口調。にじみ出る不快感。他者に敬意を忘れるな。偉い先人ダレカが言っていた。


(……正気とは思えないな)


 彼女それは膝を曲げてうずくまり、ひょっこりと影から顔を出した影霊ソレを、よしよしと撫でていた。


 視線を潜り抜けた俺は、固唾を呑んで見守るばかりだった。



 ***



「名前は……ゲゲといったか?」

「ああ」


 木漏れ日を浴びながら、鍛錬を終えた帰り道を共にしていた。地面に映る木陰が目に入り、ふと口にしただけだった。


 ——だが。


 呼び声に応えるように、足下から影が盛り上がる。不意を突かれた俺は、うっかり踏み潰さないように、思わず足を止めた。


「……おい。人が苦手なら、無理に顔を出す必要はないんだぞ」


 少しでも目線を合わせようと、しゃがみ込んで説き伏せる。ただ影霊ソレは、期待に満ちた眼差しを一方的に差し向けて、頷くばかり。


(……話は通じるんだよな?)


 はぁぁぁ……と肩を落として項垂れる。俺は一体何をしているんだ。そう思うと力が抜けた。


 ——ただ。


(……下を向いていても始まらない)


 俺は顔を上げた。


 ——すると。


 慌てふためいた影霊ソレが、なにやら必死なそぶりを見せている。


(……気落ちした俺を慰めようと?)


 はぁぁぁ……と重力が赴くままに身を任せる。なんだ、この、かわいい生き物は。卑怯者。反則だ。理に反している。


(もう駄目だ……)


 ——俺は敵わない。


 立ち向かう気すら起こさせないとは。元凶それ影霊コレか。金縛りにあった訳でもないが。


 ——ツンツンしたい。


 そんな衝動を必死に抑えていた。顔を上げられない理由は、そんなところだったかもしれない。このあんちきしょうが。


「彼は其方を気に入ったようだな」


 ——もっともなことだ、というように。


「取り憑き甲斐ある人間ヒトに出会えて、さぞ満足していることだろう」


 ——光栄に思え、というように。


 うずくまった俺に、彼女は語りかけた。


「……そうなのか?」


 ——それなら天国だが。


 愚かしい考えが脳裏に浮かんだ。重症だ。疲れているんだろう。このあんぽんたんが。


 ——ただ。


「其方が向き合うべき相手は」

「……彼ではない」


 ——そうだ。


「話が通じる相手は貴重だ」

「……碌な相手がいないんですね」


(……貴女あんたにも原因はありそうだが)


 ——そうね。


「好きにしたら良い」

「……はい?」


(……話が通じないんだが?)


「決して後悔しないように」

「……はい」


(……いったい何が言いたいんだ?)


 ——彼女は。俺に——


(……他人ほかでもない)


 ——俺は。彼女に——



「俺が向き合う相手は……」



 ——そう。他者ほかでもない——



「『俺』が決めます」



 ——そう。貴方が——


「さすが親子ね」


 ——たいしたものよ、と。


 決意に満たされた所信表明。儚い演説を聞き届けた彼女は、二言残して消え去った。


 残された人影かげは、ただ一つ。光を遮るように。底知れぬ喪失感が。胸を。覆っていた。

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