第8話 浮かび上がった文字

 翌日、皇太子が即位を宣言した。


 ——皇帝ハインリヒ一世。


 後世において、必ずや稀代キタイ名君メイクンと呼ばれるに違いない男。


 ——ただ。


 現実は甘くはないぞ。杞憂きゆうに終われば良いものを。単なる私見ではあるけれど。


 ——他人事ひとごとではない。


「お兄さま。人柄とやらはどうでしたか?」


(人柄とやらは……)


 小さな淑女から発せられた言葉に、何か引っかかりを覚えながらも、質問に答える。


「殿下……」


 ——否。


「陛下は、きっと迷君になるよ。近寄らないようにね」

「……名君に?」


 ——それなのに。


「近寄らないのですか?」

「まだ……これからだからね」


 ——そういうものですか、と相槌あいづちを打つ妹。不要な詮索はしない。安心、安心。


 兄としては、ただ興味を失うことを願うだけ。皇室と深く関わって、碌なことはない。間違っても、彼に息子がいることは——


 ——そういえば。


「でん……陛下は、お父さまと同年代。皇子は同い年でしたか?」

「……二つ上だね、殿下は」


 ——そう。私から見て、二つ上。今年で十八歳。成人を迎えた、フリードリヒ殿下。


 ——すると。


「皇太子冊立さくりつも近いでしょうね。葬儀に、即位式に、皇太子お披露目……忙しくなりますね、皇宮は」

「……そうだね」


(礼服も弔辞ちょうじも何であれ……)


 ——使い回しで良いか。


 葬儀が続いて丁度良い——なんて、不謹慎にも程がある。わかっているさ。


 ——そう。


 これは皇室に対する当てつけではない。決して。倹約は美徳。偉い先人ダレカが、そう言っていたから。


 にっく新皇帝だれかに対する私怨ではない。そう——決して。



 ***



 偉大なる指導者の死を悼む弔辞、それと——ついでに——新たな門出を祝福するに相応しい祝辞を求めて、私は書斎を訪れた。


「……久しぶりだね」


 ——父さん。


 机に置かれた、古ぼけた家族写真に、ふと思いを馳せる。


「さてと」


 生前は、隅々まで目を向けることはできなかった書棚。見上げると——ところどころに——束ねられた封筒が立てかけられている。


(父を訪れた消息たよりに……)


 ——そっと耳を傾けたい。


 ふと舞い降りた衝動に、忠実なしもべは逆らえない。


(主よ、お許しください)


 腕を伸ばして、舞い散るほこりに咳き込みつつも、いくつか手にとって開いてみた。


 ——手紙は白紙。字が飛んだ後だった。むべなるかな、というものだ。


 いろせた表面を、そっと撫でる。感慨に耽る私。背後から覗き込む女性。あどけない表情。ちらりと視線を向けられる。上目遣い。


 ——青い瞳を覗き込む。


「うわっ!」


 我ながら情けない声が部屋に響いた。


 ——彼女シエルだった。


「覗き見とは、感心しないな」


(……もう時効では!?)


 突如湧いたおどけた苦言に、たわけた応答が脳裏を駆け巡る。驚いた人間が示した反応。ただそんなものだっただけ。


「冗談、冗談」


(……ですよね)


 音もなく現れないでほしい。心臓に悪いから。書簡を封筒に戻し、元あった場所に立てかけながら、私は心中苦言を呈していた。


「……何か用ですか?」

「何も」


 ——なんだそれ。


 ついうっかり目で訴えてしまう。


 ——ボクワルクセ


「ただ気になって」


 どきり、と心臓が音を立てる。高まる鼓動。紅潮する顔。そして——


 ——予想すべき返答。


「書斎に入ったものだから」

「……そっか」


 気が抜けた返事を気がかりに思ったか、彼女は忠告を付け足した。


「あまり詮索しないこと」


 ——後悔するよ?


 穏やかな脅迫を突きつけながらも、彼女は戻された封筒を背伸びして手に取った。


 ——よりによって、というように。封筒を眺める姿が印象的だった。


 ——それにしても。


(……なぜ書斎に入ったことを?)


 真相はやぶの中。一寸いっすん先は闇。葬られるも、若輩者わたしは従うしかない。それで良いではありませんか。


 ——そう。


 深淵それを覗くとき、深淵それもまた、此方こちらを覗いているものだから。


(……あまり詮索しないこと)


 ——後悔するんですよね?


 おもむろに動き出す。滑らかな指先。取り出した一枚。開かれた一枚。問いかけるように、下方を手の甲で、そっと叩いた。


 ——ピキリ、と大気にヒビが入るような音がした。気のせいだったかな?


 ——すると。


 呼びかけに応じるように、くっきりと文字が浮かび上がった。


 ——Univer N. Orwen


 差出人さしだしにんだろうか。見覚えがない文字に、聞き覚えがある名前。


「ユニウェル・オルフェン」


 ——彼女ノルンが送った手紙。


 感慨深そうに、彼女は呟いた。


「探し物は見つかった?」

「……いいえ。これからです」


 ——そう。


 書斎を見渡す彼女に、私は問いかけた。


「お時間はありますか?」

「ええ」


「良い茶葉が届いたんです。お味見でも」

「そう」


 ——それは楽しみね、と。彼女は頬を緩ませた。

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