第7話 開かれた悟り

「皇室典範に従い、皇太子ハインリヒ・セレスティスが、皇帝ハインリヒ一世として即位する。それで良いではありませんか」


 ——そう思わないかい?


 私に目配せする彼。新手な嫌がらせ?


 ——誰も異議を唱えておりませんよ。


 皇太子に目を泳がせつつ、ただ首肯する。


(……そもそも)


 ——会議が始まってもいないけど。


 若輩者わたしは、ひとまず肯定するしかない。相手が皇帝なだけに。それで良いではありませんか。


「……もちろんだ」


 ——まさか異議を唱える者はおるまい?


 彼は、ようやく足を動かした。仇敵それに睨みを利かせることは決して怠らず。奥に鎮座する座席に腰を落ち着けた。


(……歳は取りたくないものだ)


 ——少なくとも、あのようには。


 もはや悟りを得たように、余裕綽々しゃくしゃくな私だった。何が貴重な機会か。人柄も何もない。


(……ろくな大人がいませんよ)


 内なる叔父さんに語りかける。正気とは思えませんな、と再生される声——ふっと口元が緩んだ。


「何がおかしい?」


 ——油断。


 溢れ出る敵意を抑える気すらない狂人に、目を憑けられるなんて。


(……勘弁してくれ)


 滅多無性に見境なく噛み付く狂犬に、そろそろ嫌気が差してきた。いつ怒号や罵声が浴びせられるか怯える日々なんて。


(……想像したくもない)


 癇癪かんしゃく持ちな主人に仕える使用人は、さぞかし苦労が絶えないことだろう。


(……私なら耐えられないよ)


 第一声を発しようとした時だった。


「殿下」

「……スターク枢機卿。なにごとだ?」


 ——口を挟むとは。


「彼女が恐れ多くも、不遜な態度を示したことは事実です」


 ——が。


「自ら反抗する機会を捨てるとなれば、反省する機会が与えられてこそ、慈悲深く慈愛に満ちた……」


 ——御心みこころかなうことでしょう。


(……反省? 一体何を言っているんだ?)


 ——御心に適うと何だ? 仲直りできるとでも? 答えは否。赤子でもわかる問題だ。空気を読めさえすれば。


 ——だが。


 結果として、私は助かった。不条理を押しつける大人に助けられた。彼女を犠牲にして。それだけが事実だった。


「彼女は異議を唱える機会を捨てることでしょう。罪に問うは御心に適いません。赦しを乞う機会こそ与えられるべきです」


 ——他ならぬ殿下に、赦しを乞う機会が。


「ほう……」


 にやりと御機嫌を取り戻す殿下。兎にも角にも虫唾むしずが走る私。背後から颯爽さっそうと口火を切る彼女。


 ——新たな戦端が開かれた。


「ありもしない罪に赦しを乞えとは」

「自覚する必要はありません」


「さぞや不条理に慣れ親しんだことだ」

「ええ、自負しております」


「なんと哀れな子羊か」

「情け深い狼には、頭が上がりませんね」


 ——心にもないことを、と誰もが思っていた。決して声には出さないが。


「器量に恵まれて幸いか?」

「お陰様でしょう」


「不毛な善行を積んできたことか」

「ええ、自負しております」


「大した果報者だ」

「彼女には……足を向けて寝れませんね」


 あてこすりすりと皮肉を効かせた不穏な会話に、太子かれは置いてけぼりだった。


 ——いい気味だ。


 心穢れた子供をよそに、心清らかな大人が場を収めた。


「お楽しみなところ悪いけど、会議を始めても良いかい?」

「「もちろん」」


 妙に息が合った返答を受け、大公が目で促すと、ローレンス卿は胸を撫で下ろすように息を吐き、一拍置いてから粛々と告げた。


「ただ今から、会議を開催いたします」



 ***



「荒らすつもりはなかったの」


 ——嘘つけ!


 ついうっかり目で訴えてしまう。決して声には出さないが。とばっちりを受けたような気分は、とても隠せるものではなかった。


 ——とんだ厄病神やくびょうがみを抱えたことだ。


 図らずも脳裏に浮かんだ台詞を押し込める。何はともあれ。いずれにせよ。


 ——本心ではないんだから。


「ごめんね。巻き込みたいとは」


 ——思ってなかった。


「……巻き込むだろうとは」


 ——思ってた……ってこと?


 議場を後にして、豪華絢爛けんらんな廊下を進みながら、他愛もない会話を続けていた。近づいた距離感。つい言葉遣いが乱れてしまう。

 

「……不安にさせると思って」


 ——言えなかったんだ、と。


 はぁぁぁ……とため息をつく。彼女に宛てたものでもない。強いていうなら。


 ——自分を取り巻く運命に?


「あの皇太子アホウは、大きな後ろ盾を得たと思い込んでいる」


 ——阿呆。途端に口も悪くなる。


「切り札を隠すつもりもない。見せびらかさなくては気が済まない。大きな子供だ」


 ——相手にもならない、とでもいうように彼女は言い捨てた。不安に思うことはない、とでもいうように。


(……少なくとも)


 ——相手にしたいとは思いませんが。


「そういえば……」


 ——ユニウェル。


 声に出そうとして、とっさに口をつぐんだ。どうやら彼女と、ただならない関係な何者か。短気は損気。触らぬ神に祟りなし。


 ——否。


 ただ臆病だっただけ。全て言い訳だ。緩んだ雰囲気に水を差すようで躊躇ためらった。近づいた関係を、自ら遠ざけたくなかったんだ。


「身体に起きた異変に、シアも内心不安だと思います」


 話を逸らすように、必死に言葉を紡いだ。


「自分より私を気遣うような妹で、兄としては情けない限りですが、とても良い子なんです」


 ——どうか彼女を頼みます。


 私は願いを託していた。


 ——それもまた本心だった。


「もちろん」


 ——心配することはない、と。


「約束したことだ。彼女と——大切な人たちを守り抜くと」


 ——其方も含めてな、というように。


 穏やかな微笑みに隠された、決意を秘めた眼差しに、私は目を奪われた。


 大胆不敵な態度を装った十六歳。御曹子わたしには想像できない人生を歩んできたことだ。


 ——そうだ。


 不用意に嵐を招く必要はない。急に招かれても困るだろう。まだまだ先は長いんだから。


 忌まわしい穢れた血。燦燦たるノクシオン。そして——超越者ユニウェル。


 深淵から姿を現した怪物は、いかなる感情をたたえていることか。ただ同情することすら、私には許されないような気がした。

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