第5話 主なき感情

「落ち着いた?」


 からになった茶杯カップを見つめている私に、片手で折り畳まれた日報を読みながら、彼女は問いかけた。


 太文字が踊る紙面には、伯爵邸における騒動が報じられていた。


「はい、落ち着きました」

「そう」


 ——なら結構、と腰を上げる。つられて反射的に席を立つと、暗い影が私を覆った。そこは自室に続く廊下だった。


 扉の前で主人あるじを待ち構えていた侍女エマが気づき、此方こちらに向かって会釈した。隣に立つ彼女に、別れを告げる時が来た。


「またお話する機会をいただけますか?」


 もちろん——とだけ言い添えると、霧に巻かれて姿を消した。



 ***



「音もなく立っておられたものですから」


 ——驚きました、と。


 まったく事も無げに告げる侍女をよそに、記憶を振り返る。窓際に吊るされた影法師が、ありありと思い浮かばれる。


 ——すべて過ぎたことだ。


(……呼び起こされても)


「返事をする必要はない」

「はい?」


 何を告げられたかと、エマが反応する。


「何でもないよん」

「……」


 ——たいしたことはないんだから。


 妙に晴れやかな顔をした主人をよそに、侍女は黙々と手際よく衣装を着せ替えていた。



 ***



 ——コンコン、と扉が叩かれた。


「シア、少しいいかい?」

「どうぞ」


 顔を出した彼は室内に足を踏み入れ、それから長椅子に腰かけた。優雅にお茶をたしなんでいた妹は、向き合った兄を笑みで迎える。


「調子が良さそうで安心したよ」

「おかげさまで」


 体調を気遣うあたたかい声音が、耳に心地良い。心配して様子を見に来てくれたんだ。


「後見人を指名させるなんてね。何を考えていたんだか。迷惑をかけたもんだよ」


 ——あのこんちきしょうが!


 図らずも脳裏に浮かんだ台詞せりふを押し込めながら、私は落ち着いて答えた。


「家族ですから。お兄さまは何も悪くありません。すべてあん畜生が悪いんです」

「……ん?」


(……ん?)


 待てよ、と違和感を覚えたところだった。


「……そうだね」


 口汚い妹に呆気あっけに取られているかと思ったら、兄は神妙な面持ちで同意するように頷いている。


 ——心当たりがあるんだと。


第六感アルカナが目覚めたと聞いたよ」


 ——それも光に目覚めたと。


「……うん」


 はぁぁぁ……と心配そうに、ため息をつくお兄さま。視線を茶杯に移した時だった。



 ——どうして私なのですか……!?



 紅茶に反射した光が目についた瞬間、脳裏に閃光がほとばしった。涙でぼやけたような視界。刻み込まれるような悲痛な叫び。


 ——其方に眠る第六感アルカナが、

 ——目覚めつつある。


 そう。


 ——閃光が迸るたびに、

 ——それは鮮明になるだろう。


 そうなのね。


 ——ただ受け入れること。


 何を? どうして?


 ——答えて!

 ——応えてよ……!


 こらえきれない涙が、頬を伝った。悔しくてたまらない。何もわからない。


 ——ただ。


 こたえてほしい。


 ——信じられない現実に、

 ——別れを告げたい。


 沸々と湧き上がるあるじなき感情に名前をつけるとしたら、それはきっと——悲しみにとらわれた——怒りだろう。


「シア……」


 そっと涙を拭われる感触に、帰るべき現実に引き戻される。兄を心配ばかりさせる自分に、怒りすら覚えそうだった。


 ——なんと情けないことか。


(自暴自棄に……なっては駄目……)


「自分でどうにもならないことは、周りに頼っていいんだよ」


 ——まだ幼いんだから、と慰められる。


 澄ました顔で見守る侍女も、主人を度々襲う発作を目の当たりにして、内心無力感にさいなまれていた。


「大丈夫、大丈夫だよ」


 ——シアは良い子だからね。


 よしよし、と頭を撫でる手つきは優しく、あまりにも優しすぎて。


 私はそのまま——微睡まどろみに身を任せた。



 ***



 気づけば——日暮れに差し掛かった頃だった。


 のそのそと寝台ベッドから這いずり出ようとすると、スッと履き物が現れた。これまたスッと身を退いたエマが、見上げた先に立っていた。


「またお召し物を替えなければなりませんね」


 ——私が、と訴えるような口調だった。テキパキと寝具を整える彼女と目が合うと、思わず笑みがこぼれた。


「いつもご苦労さま」


 仕事が早い侍女を形ばかりにいたわって、たどり着いた化粧台に座り込む主人。乱れた髪を丁寧に梳かしながら、込み上げた思いは愛しさだった。


(何も苦労ではありませんよ)


 大人びた話し方をすると思えば、小さな身体を震わせることもある。それでも手がかからない良い子でいようとする姿に、感銘を受けずにはいられなかった。


(十二歳……私は何をしていたかしら?)


 ——何も思い起こすことはありませんよ。


 思考をさえぎるように、扉を叩く音が頭に響いた。仕方なく作業を中断し、訪れた召使いに対応する。


「お食事が用意できたようです」


 ——急ぎましょう。


「お手柔らかにね」


 慣れた手つきに真心を込めて、粛々と身支度は進められた。

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