第17話 象られた影像

 ——どうして私なのですか?


 私は目が覚めた。耳元でささやかれた声に、呼応するように。


 寝台ベッドから起き上がることはしない。ただ、目を開けた。見慣れた天蓋てんがいと、こんばんは。ただ、それだけだった。当然ながら、そばには誰もいない。


 これを幻聴といわずして——なんというだろうか。


 月明かりが、部屋に差し込んでいる。葬式あれから日が経った。それは新たな日常となっていた。


(もう慣れたものなんだから)


 ——なにも怖くなんてないんだから。


 自分に言い聞かせるように。呪文を唱えるように。ざわつく心を鎮めていた。心を無にして。気配を消して。ただ彼らがいなくなるまで。やり過ごすだけ。


 そう——黒い影法師が、ひとりでに部屋を動き回っている。はしゃいで遊んでいるようでもあった。幼い少女が、一人で暮らしている。私と同じ部屋で。ただ、そばには誰もいない。


 これを幻覚といわずして——なんというだろうか。


「……あなたは、だあれ? あなたは、なにをしているの?」


 かたどられた影像えいぞう——少女を模した影法師に語りかけるように、私は呟いた。彼女は反応しない。彼女には、何も届いていないようだった。


 ——お前だけではない。


 反射的に、扉に目を向ける。入ってくるとしたら、扉からだから。聞き覚えがある声音。聞き覚えがない言葉。信じられない事実が、現実に訴えかけている。


 私はそれを——ただ受け入れること。それができなかった。


 それでも——だからこそ——身体が震え出す。身震いが止まらない。アレが来る。これから彼女に。彼女が。彼女を。呑み込もうと。アレが来る。



 ——今。



 扉が開く。そう思った時だった。


 影を洗い流すように、部屋を闇が覆い隠した。何も見えない。何もない。ただ——寒くはない。むしろ——包まれたように——あたたかい。


「……救世主シエル?」

「ああ」


 月明かりは遮られ、顔も見えなかった。霧から姿を現した気配が、ただ感じられた。傍に人がいる温もり。独りではない安心感。心が支えられていた。


「眠れないか?」

「……はい。眠れません」


 甘えるように、素直すなおに答えていた。


(もし姉がいたら……)


 ——こんな感じだろうか。


 そのまま身を預けてしまいたくなるような心地よさ。無条件な信頼。ただ傍にいるだけで、心が安らいでいる。全てを受け入れてくれる。


 私が——受け入れられないことも。


「自分でどうにもならないことは、周りに頼っていいんだよ」


 ——それは。


「お兄さんが、そう言っていたよね。兄が言うことは、よく聞くように」


 ——妹に無視されると、兄も悲しいだろうから、というように。よしよし、と頭を撫でられる。


「良い子なんだから。ひとりで我慢はしないでね」


 ——ただ我慢する子が、良い子ではないんだから、というように。反抗期が来たかと、誤解されてしまうから、というように。


「……第六感アルカナとは、いったい何でしょうか?」

「神に施された神秘——世界ノ意志——と謳われる恩寵ナニカ


 ——そういわれているね、と。一般的には、と。自然と答えてくれた。


「実際は……違うの?」


 ——真実それは知らないけど、と。


「代償なくして対価なし。失わずして、得るものはない」

「……随分と悲観的だね」


 素直に口に出していた。もう——ひとりで我慢する良い子ではないんだから。なんて。全てを受け入れてくれる。


 それが——お姉さま。


「等価交換——偉い先人ダレカは、そう言っていた」


 ——等価交換。


「……力には代償が伴うと?」

「そう。かしこいね」


 ——よしよし、と頭を撫でられる。褒められて悪い気はしない。それが人間というもの。至福とは、かくあるものなんですね。


「悪魔に魂を売ることだと、言う人もいた」

「……穏やかではないね」


 大した恩寵なことです。餌で釣るなんて。


「それは——悪魔ノ囁キであると」

「……呼び起こされても、返事をする必要はない」


 ——そうだ、と。取引に応じてはならない、と。操り人形にされてしまうぞ、と。あたかも別人であるように。口調が戻っていた。所為セイではない。


(あなたは……だれ? どちらが……シエル?)


第六感アルカナは、混濁した記憶に起因する既視感だ」

「……どうして記憶が、混濁するんですか?」


 ——其方は少し特別だ、と。


解離かいりした記憶を想起している。忘れられた記憶を、思い出しているんだ」

「……逆光再現フラッシュバック


 ——言い得て妙だな、と。かしこいな、と。


「要するに——幻覚・幻聴を伴う追体験。それを人間ヒトは——第六感アルカナと呼んでいる」


(あたかも自分は……)


 ——人間ヒトでないように言いますね。


「ただ——悪魔が囁く現実を受け入れること。それが人間ヒトに許された贖罪しょくざい


(ありもしない罪をあがなうなんて……)


「……否定したくなるも」


 ——もっともなことですね。

 ——気が合うね、と。


「なんであれ……人に押しつけることは……よくありませんから」

「そうだよね」


 ——よしよし、と。撫でられる感触に、ふと意識を委ねてしまう。


「悪魔を魅了した代償を支払え、と。否定したくなるも」


 ——もっともなことだよね、と。

 ——気が合いますね。


「なんであれ、人に押しつけることは、よくないことだから」

「そうですね……」


 襲い来る睡魔。良い子は寝る時間だった。もう我慢なんて、しないんだから。愚ノ骨頂ヨ。眠気に抗うなんて。ヨホホ。


「おやすみ、ルシア」

「おやすみなさい……シエル」


 明日を夢見て……眠る。毎日が……そうであれば……いい。そうで……あれば……いいのに……なぁ。

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