第18話 忘れられた元凶

 従妹ルシアを寝かし付けた従姉シエルは、次なる戦場へと向かっていた。気が赴くままに。眩しいほど光り輝く月明かりが、庭園を照らしている。


 ——舞台は整えられていた。



 ***



「真夜中にもかかわらず、ご苦労なことです」


 ——随分と暇を持て余していますね。


 というように。門前に佇む不審者おとこに声をかけた。


職務質問おたずねしてもよろしいですか?」


 ——月は狂気を助長しますから。


「……相変わらず気に喰わない面構えをしている」


 ——無礼者め! 生まれ直すがいい!


 男はすこぶる気分を害していた。


「まるで住処すみかを追われたけものですね」


(……張本人こむすめが!)


 無駄に丁寧な口調が鼻につく。


 ——駄目だ! 呑み込まれてはいけない!


(……そうだ。彼女がくすぶらせる雰囲気ペースに……)


 ——呑み込まれてはいけない。


「随分と、お仲間さんを引き連れて」


 ——刺客一同みなさん、お暇なんですね。


「教訓を与えるには、やはり役不足でしたか」


 ——悔やまれてなりませんね。


(……役か力か。何が不足か知らないが……)


 ——いずれにせよ……心にもないことを!


 硬直状態。縛られた影が緩められるはずもない。人間ヒト精神ココロを折るには、十分かと思われた。


 ——だが。


 不審者マザランは不気味な笑みを浮かべていた。


 ——あたかも人が変わったように。


「ノア——スターク枢機卿は?」

「彼は……」



 —— コ コ ニ ハ イ ナ イ 。



 静まり返った世界。張り詰められた不穏な空気。互いに互いを呑み込もうと、機会を窺っているようだった。


「いい加減、目を覚ませ」


 彼女は呟いた。抑揚なく。淡々と。


 ——彼を呼び起こそうと。


「私は……目覚めた。目覚めて……しまった。もう……戻れない。戻る気なんて……」



 ——娑羅サラ娑羅サラ……無意ナイ



 禍々まがまがしい妖気が、錯乱した男から発せられた。荒ぶる狂気が荒れ狂い、場を掻き乱していた。


「魔障に呑み込まれた聖職者とは」


 ——哀れな婆娑羅おとこだ。


 解き放たれた厄災を前に、彼女は悠然と佇んでいた。吹き荒れる瘴気をものともせず、我を忘れた狂人を見据えていた。


「其方は」



 —— こ こ に は い な い 。



 正気を失った不審者に、彼女は揺るぎない現実を突きつけた。不毛な職質に終止符を。最終通告を男に言い渡した。交渉を打ち切る意思を表明した。


 ——最後通牒おわかれを。


 あたかも蛾が光に群がるように、発せられた魔霞マカに惹き寄せられた魔霊マゴイが、地に落ちた影に取り憑き始めていた。


 憑依する依代よりしろを持たず、暗影を仮代かりしろとする魑魅魍魎が、大地を裏返すように、彼方から大影をめくり上げる。


 獲物を求めて。重い腰を上げるように。大いなる影が。全てを蹂躙して。孤独な影を。呑み込もうと。ゆっくり。ゆっくりと。


解夏ゲゲ

(((……あいよ)))


 応答した孤独な影。彼女は空を仰いだ。星に願いを込めて。此方に彼方を連れ戻す。


 ——其れは、

 ——目眩く夏。


 ——遮る雲なき青天が、

 ——色鮮やかな影を映す。


 振り返られた思い出が。色濃く。反映された物語に。想いを込めて。しみじみ。しみじみと。


 ——真名を賭して、顕現せよ。


 ——汝は、

 ——ゲオルギウス。


 ——身命を賭して、

 ——世界を生きた英霊なり。


 取り戻された記憶が。色濃く。投影された面影に。想いを馳せて。しみじみ。しみじみと。


 物語は膨らみ、面影は偲ばれる。褪せない想いに染められて、立ち昇るように姿を現した。



 ——竜を模した影霊。



「シエル……!」


 異変を察知したギルバートが、邸宅なかから駆けつけて来た。不安そうに。心配そうに。


 驚嘆すべき光景に——目を輝かせながら。


(……影竜ドレイク!)


「近寄るな。まだ」


 ——終わっていない。


 下がっていろ、と告げられる。


(戦力外通告……だと?)


 歯痒い。剣士ノ名折レ。屈辱だ。非常な事態。非情な宣告。言い渡された。怒りすら湧いた。


(……彼女に? ……自分に? 信じられない……)


 ——現実に?


 津波に抗える人間はいない。眼前に聳え立つ怪物に、想いを託すしかない。俺は。結末それを。


 ——ただ受け入れること。


(……ふざけるな!)


 ——私は貴方を否定する。


「自我を取り戻せ。生まれ直してから」


 ——出直して来い。


 影竜は腕を振るい薙ぎ払った。前方を。迫り来る津波を薙ぎ払った。けがれを振り払うように。闇夜を切り裂くが如く。彼は薙ぎ払った。


 ——終劇おしまい


 大いなる影は散り散りに消え失せ、夜空に雲散霧消した。舞台は終演。襲撃は終劇。幕は静かに下ろされた。


 偉大なる竜を模した影霊それをそっと見上げる。


 ——すると。


 憧憬それはみるみるとしぼんで、月明かりが照らす孤独な影に収まった。慣れ親しんだ住処に。


 ——ひとりぼっちではない。


 彼は顔をひょっこりと覗かせた。


「アマリ……ムチャスルナヨ。トオカラズ……」



 —— イ ロ ヲ ウ シ ナ ウ ゾ 。



 彼女を気遣う先人から送られた忠告。


(おまえ……話せたんだな)


「恐れを成したか?」


 ——憧れが成れ果てた姿に。


 人格を保持する霊体——影霊ゴースト。死を告げられてなお、揺るぎない意志を灯した英霊。


 ——恐れを成すなんて。


(……ありえない)


 膝を曲げてうずくまる。ツンツン、と影霊それをツツこうとする。反射的にか、避けられてしまったが。


(……残念)


 気を取り直すように、スクッと立ち上がる。そこに彼女が。首元から髪をかき上げる仕草に。


 ——目を奪われた。


(……?)


 見間違いか? 暗がりだからか? 色鮮やかな内髪色が、色を薄めたように感じられた。


 ——遠からず、

 ——色を失うぞ。


(憧れが……成れ果てた姿)


 目から離れない仕草。耳から離れない忠告。頭から離れない幻影。


(俺は……英雄に……)


「……うぅ」


 どこからかうめく声が、俺を現実に引き戻した。忘れられた元凶——枢機卿だった。


 ——否。


 どうやら元凶は——別にいるみたいだが。

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