忘れられた原罪

第30話 英雄ノ帰還

「ジャッジ卿、エマさん。後は頼みます」

「……かしこまりました」

　相変わらず浮遊する黒狼を従えながら、彼女は事も無げに、淡々と穏やかな声で望みを託した。

「……どこへ行くんだ？」

「敵を迎え撃ちに」

　これからが本番というように、白い髪を靡かせながら、彼女は告げた。

　——万全を期して、敵を迎え撃つ。

（万全を期しに此処（ここ）へ？　敵は何だ？）

　心中穏やかでない様子が、顔に出ていたことだった。もはや何も隠せない現実を受け入れようか。

「ついてくる？」

（……！）

　予想外な質問に一瞬戸惑いながらも、答えは決まっていた。言うまでもない。言われないと分からないが。それは俺だけか？

「ああ」

　俺が答えると、彼女は微笑んだ。哀れみではない。呆れてもいない。ただ微笑ましそうに微笑んだ。

（……気恥ずかしいな）

　むしろ勇敢と無謀は違うと嘲笑って欲しかった。君では力不足だと罵って欲しかった。

　——嘘だ。

「彼女が待っている」

　誰が待っているか。名前を言われなくても分かった。言われるまでもない。

　——義妹（シア）だ。

「兄なら側にいるべきだ」

（……誘拐犯（あんた）が言うか）

「さあ」

　差し出された手を掴む。柔らかい。足元から黒影が立ち昇った。視界が暗くなる。包み込まれる。つぶらな瞳と目が合った。

（……影霊（ゲゲ）。お前もいたな……）

　——忘れていたよ。

　＊＊＊

「足元に」

　——気をつけて、と。声が虚しく響いた。

「……」

　それも異様な光景だった。暗雲垂れ込めた暗い空。目を凝らすと、黒い何かが糸を引くように飛び交っている。

（……手？）

　無数に飛び交う影手（それ）から視線を下ろすと、厳かな城が聳え立っている。不穏な空模様を背景に、不気味な雰囲気が漂っていた。

（……魔王城？）

「魔王城とは」

　——！？

「言い得て妙ですね」

　とっさに柄に手を伸ばす。気づかなかった。振り向いた先には、聖女（それ）が立っていた。

「あら、公子様。そんなに警戒なさらないで。これでも聖女を冠された者ですから」

　——信頼には応えますよ、と。

（……猜疑には？）

「もちろん、誠心誠意」

　——お応えしますよ、と。

「……信じられませんよ」

「構いませんよ。皆さん、初めは」

　——そう仰いますから、と。

　向けられた素敵な笑顔に、今日イチ狂気を感じた。素より敵か。助けを求めるように、目を逸らす。

　そこに救世主（シエル）がいた。

「年下を揶揄（からか）うとは、良い趣味してますね」

「それが生きがいですから」

（……傍迷惑な人生だ）

「そういう性分ですから」

　——仕方ありませんね、と。

　それも彼女に向けられた言葉だった。

「お兄さま！」

「……シア！」

　声に振り向き、駆け寄ってきた彼女を抱きしめる。誘拐された義妹と再会。不穏な空気も一変。喜びも一入（ひとしお）だった。

「あらあら。感動してしまいますね」

（……心にもないことを）

　水を差す彼女より、一変した彼女。

「……精神疲労（ストレス）？」

（……んなわけあるか）

　妖犬を従えた妖女——白髪を靡かせる妖しい魔女は、何喰わぬ顔で答えた。

「説明は後。今は安全第一」

　指差した先には、妖しい空模様。指差す主体も妖しいが。妖しい雲行き。妖しい予感。

　——手厚い黒雲が渦巻いていた。

（……雷でも落ちそうだ）

「あら」

　聖女（それ）が空に向かって呟いた。見据える先を追いかける——瞬間。光に目が眩んだ。

　——！？

　瞬く間に目を眩ませる雷光。

　——嘘だ。

　予感を現実とする雷鳴。

　——死。

　頭が真っ白になる。視界が真っ暗になる。天が下した裁き——神罰（それ）を影霊（かれ）は遮断した。

「タイシタモンダロ」

　それは俺に向けられた言葉だった。

　気づけば義妹（シア）に覆い被さっていた。そんな俺たちに覆い被さるように、影竜（ゲゲ）が姿を現していた。

「……う、う……ん」

「……シア！　大丈夫か？」

　強い衝撃（ショック）を受けた様子が痛々しい。外傷は無さそうだが、頭を抱えている。心的外傷（トラウマ）間違いなし。もはや正常な反応だ。

「……また来そうですね」

（……！）

　聖女（それ）が警告した通り、続く一撃を準備するように、暗雲が渦巻いていた。

「モウムリ」

（……おい！）

　——何事にも相性はあるってか！？

　相も変わらず頼りは妖魔女（シエル）。縋るように視線を向けた。瞳をとじて、穏やかに佇む彼女。聖女（それ）よりは神々（それら）しかった。

　瞳をひらいて、彼女は語り始めた。

「最近ね、ふと思うの」

「……何を？」

（……今しか言えない？）

　俺は身構えた。自分を顧みない彼女。語られる内心。すべてが只事ではないと。敏感に感じ取っていたから。

「世界が物語なら、私は何者かなって」

「……もちろん、魔王（ラスボス）だろう」

　——そう、悲劇を招いた元凶（ラスボス）。

「きっと私は、此方（こなた）とは異なる彼方（かなた）——異なる世界で、生きるべきなのよ」

「……待て。何の話だ？」

　——さあ。

　見惚れていた現実から、目を逸らした発言。照れ隠し。ただ現実逃避（それだけ）だったのに。

「いつか物語でも書こうと思って」

「……好きにしたら良い」

　——すべて忘れられたらいいのに。

「いつまで経っても色褪せないから」

「……」

　言葉が出なかった。弱音を吐く女性を慰めた経験なんて、一度も無かったもんだから。

（貴方は教育を間違えました——父さん）

（（（他人の所為にするな）））

　——！？

（（（身体を借りるぞ）））

　言葉が出なかった。影霊に憑依された経験なんて、一度も無かったもんだから。

「……来ましたね」

「ああ」

　俺を操る英霊は、桜舞い散るような霊気を漂わせながら、聖女（それ）を横切り、柄を握り締めた。

（……何をする気？）

「決まっている」

　迸る——雷光。轟く——雷鳴。来るべき——衝撃。

「断　ち　切　る　の　み　だ」

　存分に腕を振るわれた。配慮ない一撃。一刀両断。斬撃（それ）は全てを切り裂いた。

（……わお）

　割れた雲間から覗く青空。射し込む日差し。世界が救われたようだった。

「思ったより彷徨った。遅れて悪いな」

　剣を鞘に納めて、魔王に近づく勇者。それは——父親（かれ）だった。

「英雄は遅れてやって来る——桜の季節には」

　——早すぎたくらいですよ、と。