忘れられた原罪

てんかびと

第1章 失われた英雄

第1話 骨身に染みる洗礼

 ——人は死を告げられてから、残された時間を生き始める。決して後悔しないように。



 ***



「お嬢さま、お支度が整いました」


 侍女が呼びかける声に、ふと我にかえる。おもむろに俯いた顔を上げると、明滅する稲光が鏡を照らした。


「はぁぁぁ……」


 私は深いため息をつき、大きく項垂うなだれた。行きたくない、と言わんばかりに。


 これ見よがしな態度に慣れ親しんだ侍女も、泣くでもなく重いため息をつく小さな主人に、思うところがないわけではなかった。


 父親を亡くした悲しみに暮れるような境遇ではなかった。それを許すような情勢でもない。


「……行こっか」


 絞り出すような声で呟き、よろよろと立ち上がった。扉に向かって、ふらふらと足を運び出す。


 振り返ると、ひときわまぶしい稲光が室内を照らした。エマがあかりを吹き消した瞬間だった。


 吊るされた影法師が逆光に浮かび上がったかと思うと、またたく間に姿を消した。


(追い詰められると……)



 ——人は本当に幻覚を見るのね。



 まるで他人事ひとごとのように、奇妙な現実に感心しながら、ルシアは部屋を後にした。



 ***



 空気を切り裂くような雷鳴がとどろき、窓に荒れ狂う雨音が廊下に響き渡っていた。


 ——ノクシオン公爵家の後継者として、長男テオドールを指名する。


 まばゆい稲光が足下を照らすたびに、目がくらむような閃光が脳裏にほとばしる。これから待ち受ける洗礼から、目を背けることなど許さない、というように。


 ——テオドールが成人を迎えるまで、選任された後見人が当主代理を務める。


 淡々と遺言を読み上げる執事。耳を澄ませる聴衆。思い出したくもない記憶が、脳裏を駆け巡る。



 ——後見人は、長女ルシアが指名する。



「はぁぁぁ……」


 明滅する視界に耐えきれず、そっと壁にもたれかかると、侍女エマが心配そうに覗き込んできた。


「気分がすぐれませんか?」


 ——大丈夫ですか?


 常に冷静な彼女が、不安げな表情で緊張と焦りを声に含ませている。


 ——只事ただごとではない。


 エマは既に理解していた。専属侍女として小公女ルシアに仕えて以来、初めて訪れた異変であると。


「皆様をすぐにお呼び……」

「待って!」


 お兄様たちを呼びに行こうとする彼女エマを止めようと、つかんだそでを離さなかった。


「大丈夫だから……」


 ——行かないと。


 自分に言い聞かせるように呟きながら、重い足取りで再び歩き始める。


 すでにさいは投げられた。立ち止まるわけにはいかない。


 ——家族を守るために。


 何かに取り憑かれたような主人を前にして、侍女は後ろ姿を見守るばかりだった。



 ✳︎✳︎✳︎



「兄さん、シアが来た」


 ギルバートがひじでつつくと、執事と進行を確認していたテオドールは駆け寄った。


「シア、大丈夫かい?」


 兄が妹を抱擁すると、ルーカスも駆け寄って、姉にぎゅっと抱きついた。


「これから部屋に入って、奥に置かれているひつぎに花を手向たむける。周りは気にしないで、ただ前を見てついてくればいいから」


 ——何も心配する必要はないからね、と伝える兄の腕は、緊張からか少し震えていた。


「私は大丈夫。お兄さまがいるから」


(だから兄さまも安心して……)


 十六歳という若さで公爵家を担う重圧は、世間知らずなお嬢さまにとって、察するに余りあるものだった。


 何もできない自分が歯痒く、抱き返す腕に力が入る。


 ——せめて震えが収まるように。


「……ジャッジ」


 兄は扉を開けるよう執事に呼びかけ、そっと身を離して笑みを浮かべた。


 抱きついていた双子弟ルーカスも、いつのまにか顔を上げていた。目と目が合い、黙って互いに手を握りしめ、扉と向かい合った。


 執事ジャッジうやうやしく扉を開く。テオ兄さまを先頭に、ギル兄が続く。そして私とルークが、後を追いかける。


(……ええいままよ!)


 静まり返った室内に足を踏み入れると、突き刺すような鋭い視線が身体を貫いた。見知らぬ顔に、冷たい表情が張り付いている。


(……見世物になった気分で)


 ——心底不愉快だ。


「あれが娘の……」「後見人を選ぶ……」「まだ幼いのに……」


 奥に進むにつれて、見物客かれらは口々にはやし立て始めた。醜悪な思惑が渦を巻き、私たちを呑み込もうと機会を窺っているようだった。


「やはり次男であるダグラスきょうが……」「エリアス卿が剣術を教えていたとか……」「イザベラ夫人が滞在していたことも……」


 安置された棺に花を手向け終わり、促されるままかたわらに控える。直系親族わたしたちに続いて、傍系親族かれらが花を供えるようだった。


 ——次男ダグラス・ノクシオン侯爵。歩く野心。彼を指名しなければ、私に明日はないだろう。


 ——三男エリアス・ノクシオン伯爵。歩く良心。彼を指名しなければ、私たちに明日はないだろう。


 ——長女イザベラ・セネット夫人。歩く姿は百合ゆりの花。彼女を指名したら、ノクシオンに明日はないだろう。


(彼さえいなければ……)


 亡き兄に別れを告げる弟妹ていまい——叔父おじ叔母おばを見ながら、不毛で罰当たりな願いをいだかずにはいられなかった。



(どうして私なのですか? お父さま)



 問いかけずにはいられなかった。


 ——故長男アルバート・ノクシオン公爵。帝国を導いた英雄よ。

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