第3章 還り咲く英雄

第21話 神ノ愛シ仔

 ——シエル!


 悲痛な叫びが、聞こえてくる。刻み込まれるような、悲痛な叫びが。どこからともなく、聞こえてくる。感情を揺さぶってならない、悲痛な叫びが。


 ケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケ


 ——コウカイシタナ?

 ——だまれ。


 異変を機敏に察知した慈悲深き皇帝陛下ハインリヒは、哀れな護衛に恩情を施すに、やぶさかではなかった。


「……小娘。急用か? ならば……行くがいい」

「馬鹿を言うな」


 侍女エマが傍にいる。命に別状はない。だから——問題ない。理性は——そう告げていた。


 ——だが。


「もう手遅れだ」


 それは——機敏な侵略者だった。


 あたかも依代よりしろを求めるように、とびら奥から影手エイシュ何本いくつか伸びて、獲物を捉えようと威勢よく襲いかかってきた。


 一本、また一本と、形を保てずに消滅していく。それでも——くぐるように、此方こなたに近づく一本が、獲物を捕えようと手を伸ばす。


「とんだ——じゃじゃ馬だ」


 彼女は——接触それを——否定する。


 添えられた二本指——人差し指と中指——が、残された影手かれに向けられる。あと一歩というところで、影手それは静止した。あたかも影が縛られたように。


 差した指を折り曲げ、親指が受け止める。蓄えられた力が、勢いよく放たれる。


 ——ビキッ!


 弾かれた大気——霊気は悲鳴を上げ、耐えきれないように亀裂が走る。そして戦慄せんりつする間もなく、影手それは風化するように消え失せた。


 彼女に——存在それを——否定されたように。


 それは——刹那せつなに込められた一撃いちげき——一劇だった。


 ケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケケ


 けたたましい鳴き声——笑い声が、謁見ノ間に響き渡る。おもしろがるように。必死に抗う小娘を。骨頂コッチョウダ、と。嘲笑うように。


「……すまないな」


 背後に控える要支援者ハインリヒが、謝罪を口にした。


 ——コウカイシテイルナ?


「後悔はしない」

「……」


 ——ウソ。ウソダ! ウソヲツイタナ!


「黙れ」


 青焔せいえんが、彼女を——二人を囲むように、とぐろを巻いて、明々あかあかと燃え盛った。


 あたかも怒りが現れたように。怒りに呼応したように。底から湧き上がる呼び声に、応じたように。


 暗がりから忍び寄る魔霊マゴイは、ほのおを避けるように身を退けた。それでも機会を窺うように。躊躇ためらいながら。暗影あんえい憑依ひょういしたまま、距離を取っていた。


 ——オコッタ! オコッタゾ! ズボシダ! ズボシダッタ!



「あら」



 暗闇から響いた靴音に、清らかな声を重ねながら、月明かり照らす謁見ノ間に、足を踏み入れてくる者がいた。


魔女あなたにも感情こころがあるとは。揺さぶられる心が……? なんと……まぁ……罪深き者ですね」


 にこりと微笑んだかと思うと、自己紹介を忘れなかった。存在わたしを、脳裏に刻み込め、というように。


「私は、アナスタシア。貴女を救うべく、聖女を冠された者。そして貴女の……」


 ——叔母おねえさんですよ、と。


「私に従姉あねは、一人だけですよ」

「……ユニウェル。なんと……まぁ……憎たらしい響き」


 ——殺してやりたいほどに、と。


「……彼女は元気にしていますか?」

「おかげさまで」


 ——ウフフ。


 愉快不愉快、気味が悪い微笑みが、端正な表情かおを歪めていた。恍惚こうこつに満ちた狂気が、彼女を呑み込んでいるようだった。


 ——ハァァ。


「……たまりませんね」

「不愉快だ」


 ——生まれ直すがいい、と。


「生まれ直すべきは、貴方あなたでしょう」


 ——厄病神もののけさん、と。


「取り憑いた依代に愛着が湧きましたか? 自分は解離かいりした人格ペルソナとでも?」

「……」


「惜しくなりましたか? 記憶とは乖離かいりした現実が?」

「……」


「それとも……まさか……情が湧きましたか? 哀れな神ノ愛シ仔シエラ・ザードに?」

「……」


 ——アハハ!


人間気ミイラ取りが人間ミイラになるとは、まさにこのことですね……!」


 ——魅入みいられてしまいましたか……!? アハハ……!!



「ああ」



 空気は一転、場は凍りついた。甲高かんだかい声は鳴りを潜め、途端に興を削がれたというように、目は焦点を失い、顔は虚空こくうを見上げていた。


 ——ハァァ。


「……信じられない」


 現実に呆れたように——天井そらに向かってため息を吐いたかと思うと、裏切られたとでもいうように——憎悪がこもった低い声を発した。


 ——ですが、と。これ見よがしに——視線を戻して微笑んだ。


「私は諦めませんよ。私には、貴女あなたがいますから。外界げかいには……」


 ——秘法が紛れ込んでいるものですから、と。


「それを外法げほうというんだ。外道げどうめ」

「それを人間は——奇跡と呼ぶものです。生死を超越した御業みわざ託宣オラクルに導かれた——奇跡ミラクルであると」


 ——勉強になりましたか? というように。


「それに……人間は禁忌を破りたがる——犯したがる生き物です」


 ——なんと……まぁ……罪深き者か、と。


「誰しも——魔が差してしまうものだ」

「うふふ、おっしゃるとおりですね」


 ——貴方が言う通りですよ、と。彼女は悪くありません、と。


「いつか貴方は……彼女を手放すことでしょうか」

「オレと——」「私は——」「「一蓮托生」」


 ピキッと首筋に痛みが走る。あたかも器に亀裂が入ったように。


偏愛者そなたを相手にしている」「暇はないんですよ」


 ——アハハ!


「仕方ないですね。まったく、手がかかる姪っ子です」



 ——失せろ。



 足元に燻る青焔が、再び燃え上がる。そして獲物に襲いかかるように、前方を駆々抜々かけぬけ駆々抜々かけぬけ——衝突——烈火烈柱ひばしらを噴き上げた。


(……明々と……燃えている)


 我が謁見ノ間が。


 ——危ないところでしたね。ですが、火遊びは……ほどほどに。身体は大切にね。


 呆然とした部屋主ハインリヒをよそに、白い霧と化した聖女。彼女は甘い小言を残して、言われた通り消え失せた。


 ケ……ケケケ……ケケケケケケ……ケケケケ……ケケ…………ケ………………


 衝突した魔霊マゴイは、死に際してなお、狂気に満ちた笑い声を、決して絶やさなかった。


 そして——世界に還元されるように、跡形もなく、消え失せた。


(身体は大切に……か)


 首筋——髪の付け根に、そっと手を添える。まだ記憶それは——色褪せていない。

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