神ひらく物語ープレーナ編ー

銀波蒼

第1話 水晶の館

 ヒラクは朝方の夢を見ているような気分で眠りから覚めようとしていた。まぶたの裏で、眩しさに吸い込まれるように、夢が白んで消えていく。


 幸福な気分だった。


 静かで、穏やかで、なつかしいような安心感があった。

 眠りと目覚めの狭間で、いつまでもこの安らかなまどろみに浸っていたいとヒラクは思った。


 そんな思いをひきずりながら目覚めたヒラクの目の中に飛び込んできた青空は、うっすらと緑がかっていた。薄い緑の水膜が強い日差しをやわらげている。たゆたう水面に光が揺らめく。まるで水の中から空を見上げているかのような光景だった。


 ヒラクは寝ぼけまなこでぼんやりと、夢の名残をひきずるような思いでいた。


(誰か……なつかしい人に会ったような気がする……)


 幸福な気分で目覚めた朝は、そんな気分にさせられる。けれどもそれが誰だったのか、ヒラクはいつも思い出せない。


「ヒラク」


 その声でヒラクははっきりと目を覚ました。


「目が覚めた?」


 琥珀色の瞳の女がヒラクの顔を覗きこんだ。


「母さん……?」


 女は微笑みながら、ヒラクの緑色の髪を優しくなであげた。その細い指先のひんやりと冷たい感触をヒラクははっきりと覚えている。


「これは……夢?」


 目の前の母は、ヒラクが記憶する七年前の姿とまるで変わらない。いや、その頃よりも美しく、若々しいとさえ感じられた。

 ヒラクの母親の長い緑の髪は艶やかで、なめらかな肌は抜けるように白く、キメ細かくしっとりと潤っていた。そしてヒラクをみつめる琥珀色の瞳は深く透明に澄んでいる。ヒラクには、目の前の母が現実に存在しているようには感じられなかった。


「ここはどこ?」


 ヒラクは母から目をそらし、体を起こして辺りを見た。


 不整形な水晶の柱が四隅に突き刺さるように立っている。白濁した水晶の床は気泡を含む氷のようだ。壁はなく、代わりに床の四辺に沿って樹木が立ち並んでいる。

 ヒラクは、くるまれていた布から抜け出して立ち上がった。白く濁った水晶の床は、はだしの足にひんやりとつめたい。中心にある寝台も水晶でできているようだが、床や柱よりも透明度が高かった。サイドテーブルには銀の水差しが置かれている。


「ここは聖室の一つよ。選ばれた者だけが住まうことを許される場所なの。偉大なるプレーナとともにね」


「ここにプレーナがいるの?」


 母の言葉を聞いて、ヒラクは急に落ち着きなく辺りを見た。


「おかしな子ね。すでにあなたはプレーナとともにあるというのに」


 ヒラクの母は意味ありげな笑みを浮かべた。


「そうね、でもあなたがこうして私のもとに戻ってきたお礼をしなきゃいけないわ。一緒にいらっしゃい」


 ヒラクの母は、身にまとう一つなぎの白い衣服の長い裾を床にひきずって歩いた。


 四方の柱の間を埋めるように生い茂る樹木の隙間に通路が伸びている。

 ヒラクは母の後に続いてその通路を歩いた。

 よく見ると、通路の左右は水に浸されている。水は淡い緑の光を放ち、直立した木々の根元は眩い水面下にあった。水面から唐突に突き出したような木々の緑の葉は瑞々しく潤い、ぼんやり発光して見える。


 ヒラクは先ほどからずっと気になっていることがあった。

 奇妙なぐらいに静かすぎることだ。


 母の衣擦れの音以外、聞こえる音が何もない。特に自然の中で感じられる音が何もしないということが、ヒラクには気味が悪かった。葉の茂る音、鳥のさえずり、虫の羽音……。木々に生気を感じさせるのは、風であり、寄りつく鳥であり、動物であり、虫である。ここにある樹木は枯れ木ではないが、ヒラクには、まるで死んでいるかのように感じられる。


 そんなことを考えながら歩くうち、ヒラクはすでに別の場所に足を踏み入れていた。


 白い氷壁のような水晶の壁が両側から通路を挟んで行く手に伸び、柱も樹木も消えていた。天井は高く、床と同じ白く濁った水晶でできているようだ。振り返れば長い廊下が伸び、水晶の壁が続いている。いつのまに樹木が途切れたのか、ヒラクはまったくわからなかった。


「ぼんやりしていると迷子になるわよ」


 振り返る母は、まるで小さな子どもに声を掛けるように言う。

 

確かにヒラクはぼんやりとうつろな状態でいた。夢の中にいるような浮遊感がどこまでもつきまとう。

 ヒラクには、母と再会したという実感がまるでなかった。ずっと会いたかった母ではあったが、なつかしさよりもうれしさよりも、戸惑いと緊張が先にあった。


「母さん」


 ヒラクは呼びかけた。


 そして笑いかける母の顔をじっと見た。


 ヒラクは、緑の髪の他に母と自分に何か共通のものがないかを探した。

 ヒラクの目は赤みがかった茶色で、琥珀色の母のものとはちがう。だが父の黒い瞳よりは明るい。肌の色もヒラクは抜けるように白いというわけではなく黄みがかっている。だが褐色のアノイ族の中では、肌の色素は薄い。


 ヒラクは自分と母をつなぐものを必死にみつけようとしていた。そうすることでしか親子という実感が得られないのだ。


「……すっかり大きくなったのね」


 どこか残念そうな顔をして、ヒラクの母はつぶやいた。


「そのままじゃ偉大なるプレーナの前には出られないわ」


 ヒラクの母は眉をひそめ、背を向けて歩きだす。


「いらっしゃい」


 ヒラクは黙って母の後についていった。

 そして自分の衣服を気にした。黒地に赤と白の大きな幾何学模様が入ったアノイの厚手の長衣は砂埃で汚れていた。寝ているときにはずされたのか、脚絆も履物も身につけていなかった。

 それで母はだらしないと思ったのだろうか……。

 ヒラクはそんなふうに考えた。


 白濁した水晶の壁の右側にアーチ型にくりぬかれた窓が連なる。

 窓の向こうは庭園だった。

 同じく廊下と思われるアーチ型の窓のついた壁に四方を囲まれた中庭だ。

 真ん中には大きく丸い透明な水晶を半分埋め込んで周りを囲んだ泉があり、鮮やかな緑の水草が水面に浮かんでいる。その泉から放射状に遊歩道が伸びている。遊歩道以外の場所には、淡い緑の水が行き渡っていて、その水に浸るように草木が生えている。透明な水晶の遊歩道は、緑の水面に浮かぶ橋のようだった。空はヒラクのいた部屋と同じ水の膜がはられているかのようで、光が頭上でゆらめいていた。


 ヒラクはなぜかその場所が気になった。そしてアーチ型の窓が途切れるまで、ずっとその中庭を眺めていた。


 歩き進んできた廊下は、中庭を取り囲む四方の廊下の一つにぶつかった。

 ヒラクはどこから庭へ入れるのか、行き当たった廊下を右に曲がって確かめてみたいと思った。

 だが母はヒラクを振り返ることなく左へと曲がり、先へ進んでいく。左手にはすぐ階段があった。


 いつものヒラクなら好奇心のままに右に伸びる廊下に向かっただろう。だがヒラクは遠ざかる母の背中を見て不安になった。そして必死に後を追いかけた。


 ヒラクは階段を駆け上がり、母の手をつかんだ。置いていかれてしまうという不安感と拭いきれない母への不信感がヒラクの中にある。

 ヒラクは母の手を強く握った。そして母がその手を握り返してくれたことに心底ほっとした。


 ヒラクは母と手をつないだまま、水晶の階段をゆっくりと上がった。一段ずつ、白濁した水晶の透明度が増した。


 階段を上がりきると分厚い氷のような水晶の壁に囲まれた場所に出た。

 床は限りなく透明に近い。

 正面にアーチ型の入り口がある。

 小部屋の中心の床は四角くくりぬかれていて、淡い緑の水が床と同じ高さまで湛えられていた。緑に発光する水槽がぼんやりと足下に浮かぶようだ。

 母は四角い堀池の前でヒラクの衣服を脱がし始めた。


「な、何?」


 ヒラクは驚き、戸惑った。


「一人でできないでしょう? 手伝ってあげるわ」


 ヒラクの母は微笑みかける。


「いいよ別に」


「自分でできるの? えらいわね」


 母にほめられて、ヒラクは服を脱ぐことを拒むことができなくなった。

 ヒラクはおとなしくアノイの長衣を脱いだ。


「さあ、いらっしゃい」


 母は衣服を着たままで、裸のヒラクの手を引いて、緑の水の中に入っていく。

 底まで続く階段をヒラクは一段一段確かめながら、体を水に浸していった。


 ヒラクが肩まで水につかると、ヒラクの母は、自分はもう一段だけ降りてヒラクと向き合った。

 そしてヒラクの体を肩から腕にかけて両手で優しくなでた。

 次に背中、胸から腹、尻から足にかけて、全身の汚れを洗い流すようにていねいにヒラクの体をなでさすった。


 アノイの村では、ヒラクは川の流れで体を洗い清めていた。そうしないと母の部屋には入れてもらえなかった。

 ヒラクにしか見えない川の女がやさしく体をなでさすってくれた。母を失ってからもずっと。

 あの女は、自分が母の代わりとして求めて生み出した幻だったのだろうか……。

 ヒラクはそんなことをぼんやりと思った。


 最後にヒラクの母は、頭だけ水に浸るように水際の床にヒラクを寝かせ、自分は水の中に立ち、ヒラクの髪を洗った。

 ヒラクは気持ちがよくなって、そのままうとうとと眠ってしまった。




「ヒラク」


 

 母に呼びかけられ、ヒラクは床の上でハッと目を覚ました。

 すでに水の中から出ていた母のひざまくらで眠っていたようだ。


「おれ、寝てた?」


「少しね」


 ヒラクの髪も体もすっかり乾いていた。


「この格好……」


 体を起こしたヒラクは、自分が身にまとう衣服を見て戸惑った。それは母と同じ白くなめらかな素材の服だ。母よりもすそは短く、袖もない。

 アノイの村の女たちも胸元を開けた一つなぎの服を着ている。だが木の皮の繊維で織られているため、今身に着けている服のようなつややかさとなめらかさはない。それでも服の形は似ているし、何より母と同じような格好だ。

 なぜである自分が女の装いをしなければならないのかと、ヒラクは恥ずかしいような情けないような気持ちになった。


「よく似合うわ」


 満足そうな母の顔を見て、ヒラクは何も文句が言えなくなった。


「髪も切りそろえなきゃね」


 長く伸びた前髪を母に指先でつままれて、ヒラクはふいっと目をそらし、口をとがらせた。


「それじゃまるで女の子みたいだ……」


「ヒラク……」


 母は哀れむように我が子を見た。


「これがあなたの本来の姿よ。あなたはプレーナの娘なの」


「どういうこと?」


「あなたは自分を男の子だと思っているの?」


「だって、そうじゃないか」


「……かわいそうな子」


 母の琥珀色の瞳が潤んだ。


「あなたは女の子よ。プレーナの娘として生まれてきたの。ここにこうしているのが何よりの証拠よ」


 ヒラクは混乱した。プレーナの娘という意味もわからなければ、なぜ今ここにいるのかもわからない。そして何より、自分が女の子だということが、どういうことなのかまったく理解できなかった。


「だって、父さんが、おれは男だって、みんなだって……」


「あの男にだまされてきたのよ」


 突然、ヒラクの母の目に憎しみが宿った。


「あなたの父親は、それはひどい男だったわ。不浄の場所に私をさらい、聖なるプレーナから遠ざけた。そればかりか、プレーナの娘であるあなたの人生を変え、私から奪い去ったのよ」


「ちがう! 父さんはひどい男なんかじゃない! それに、おれを置いていったのは、母さんの方じゃないか……」


 ヒラクの目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。母に置いていかれたという事実をヒラクはずっと認められなかった。口に出すとよけい悲しくなった。


「どうしておれを……捨てたの?」


「ヒラク……」


 ヒラクの母は泣きじゃくる我が子を優しく抱きしめた。


「かわいそうに。あの男にそう言い聞かされてきたのね」


 ヒラクは母の言葉に凍りついた。


「はなして」


 ヒラクは自分を抱きしめる母を突き飛ばした。そして充血した目で母をにらみつけた。ヒラクの母は、その目にヒラクの父イルシカを見る思いがした。


「あなたは誤解しているわ」


 母は嫌悪感をあらわに目を細めた。


「私はあなたと一緒にここに戻ってこようとしたの。もしも生まれた子が女なら、プレーナの娘としてプレーナと共に生きる運命にあると、私はあの男に言った。そう、女ならば手放すという約束だった……」


 ヒラクの母はくやしそうに顔を歪めた。


「あの男は卑劣な男よ。生まれてきたあなたを男と偽って、あの野蛮な地で育てることにした。本来の運命をねじまげて、あなたをプレーナから遠ざけて、そして私から引き離した」


「いなくなったのは母さんじゃないか!」


「ちがうわ」


 ヒラクの母は言葉をかぶせるように言った。


「私を追い込んだのはあの男よ。私はプレーナの娘。プレーナと引き離されては生きられない。それを承知であの男は、プレーナをとるかあなたをとるかと、私のことを追いつめた。いい?ヒラク、あなたと私を引き離したのはあの男よ。そしてあなたが本来のあなたとして生きる道を阻んだのよ」


「本来の自分?」


「そう、あなたは女の子で、プレーナの娘なの」


 ヒラクはわけがわからないといった顔をする。

 ヒラクは自分が男だと信じてずっと疑わなかった。いとこのイメルやアスルのようにひげが生えたり、身長が伸びてたくましい体つきにならないのは自分が異民族の子であるからだと考えた。

 ヒラクには性差の意識はほとんどない。十三歳のヒラクは、年よりもずっと幼い心の子どもだった。


「そんなこと急に言われても……。おれは男の子だよ。だって、ずっとそう思ってきたし……」


 ヒラクは戸惑うばかりだ。

 そんなヒラクに強く言い聞かせるように母は再び繰り返す。


「あなたは女の子。プレーナの娘よ。プレーナと一つになるために私から生まれてきたの」


「そんなの、おれ、知らない。そんなことがしたくてここに来たんじゃない」


 ではなぜ自分はここにいるのか、ヒラクにはわからない。自分の気持ちもわからなかった。

 ただ母に抱きしめてもらえればそれでよかったのか? 何をこの母に求めるのか?  

 心の中はぐちゃぐちゃで、どう整理していいのかもわからずに、ヒラクは目を床に泳がせる。そんなヒラクの髪をなであげ、母は優しく微笑んだ。


「今はわからなくていいわ。ただこれだけは忘れないで。あなたはプレーナの娘なの。ここにいるのが何よりの証拠よ。プレーナの娘であるあなただからこそ、ここに来ることができたのよ。いつかあなたが私のもとにこうして戻ってくることを私は信じ、祈ってきた」


 ヒラクの母は立ち上がり、ヒラクに手をのばした。


「さあ、行きましょう。ここにあなたがやってきたのも、偉大なるプレーナのお導きに他ならない。お礼を言うのよ。いらっしゃい」


 ヒラクは座り込んだまま、母の手をつかむのをためらった。

 そんなヒラクの戸惑いを無視して、ヒラクの母は強引に腕をつかんでヒラクを立たせた。そして堀池の向こうにあるアーチ型の入り口の前までヒラクの手を引いて歩いた。


 アーチ型の入り口から、透明な水晶の床が先へ続いていた。独特な香りが漂ってくる。母の髪からもほのかに香る。それはヒラクの幼い頃の記憶を呼び覚ますなつかしい香りだった。


 入り口の向こうから、何か異様なうめき声のようなものがかすかに聞こえてくる。 

 よく聞けばそれは人のものとわかる。


……還元の主……偉大なるプレーナ……


 ヒラクはアーチ型の入り口をくぐるのをためらった。独特のにおいのせいではない。うめき声のせいでもない。ヒラクは、何か密度の濃い空気のかたまりのようなものが前方から押し寄せてくるのを感じた。


「どうしたの?ヒラク。行くわよ」


 母に手を引かれるが、ヒラクは足を踏み出せない。


「私が一緒よ。だいじょうぶ。手をつないでいてあげるから」


 その言葉に何度も裏切られてきたとヒラクは思うのだが、それでもその手を離せないのは自分の方だと知っていた。


「ここを通り抜けたとき、あなたは生まれ変わるのよ。運命をやりなおすの」


 自分が女であるという事実、そして「プレーナの娘」であること、そのことで一体どんな運命が待ち受けているというのか……。


 それより何より母は一体誰に会わせようとしているのか。お礼を言う相手とは……。


(まさか、この先に、プレーナが……?)


 ヒラクは鉛を引きずるように重い一歩を踏み出した。


 



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