第11話 扉の向こうの意識と錯綜
ヒラクは尖塔に挟まれたアーチ型の扉の前に立った。
ここに入ってきたときに、扉は背後でプレーナの娘により固く閉ざされた。
向こうの扉にはかんぬきがかけられているはずだ。
でももしもまたこの扉の向こうが別な場所につながっているのだとしたら?
ヒラクはそう考え、両手で扉を押した。
ゆっくりと扉が開いた。
隙間から緑の光が差し込む。
吸い寄せられるようにヒラクは扉の中に入っていった。
緑の光が充満していた。
ヒラクは体の重さがなくなったように感じた。動かす手足が重い。息苦しい。
(ここは……水の中だ!)
ヒラクはごぼごぼと口から空気を吐き出した。
そして水を飲み込んだ。
水というよりも密度の濃い空気のようなもので、肺に吸収されるように重い水が体の中に溶け込んだ。
見上げれば、そこには水膜の空がある。
それこそ本当に水の中から見上げた空だった。
ヒラクはとにかく浮上しようとした。
だが急に何者かに足をつかまれた。
ヒラクは下を見た。
老人が足にしがみついていた。
(……老主!)
ヒラクの足にしがみついていたのは、セーカのプレーナ教の前老主だった。ヒラクはこの老人を二度見たことがある。
一度目は、前老主がミイラと化していた「老主の聖室」で。
二度目は、シルキルの祖父の中に入り込んで見た記憶の光景で。
いずれの時も前老主はヒラクの存在にまったく気づいていなかった。
だが今はちがう。
前老主はしっかりとヒラクの4足にしがみつき、血走った目を向けて、哀願するようにヒラクの顔を見上げている。
「ヴェルダの
ヒラクは足を動かし、しがみつく前老主を振り払おうとした。
「なぜですか? なぜ私はこんなところに一人でいるのですか? 私に与えた生命の水は特別なものではなかったのですか? 私は選ばれた者のはず……」
ヒラクは息苦しい水の中でじたばたと手足を動かしてもがく。
だが前老主は頑としてヒラクから離れようとはしない。
愚かな……
哀れな男だ……
もはや老主の資格なし……
水の振動を伝えるように声が耳に届いた。
周りには誰もいない。
それでも気配が感じられる。
瞳を閉じたヒラクのまぶたの裏に声の主らしい老人たちの顔が浮かんだ。
その中の一人にヒラクは見覚えがあった。
「井戸の間」で見た幻で、プレーナに向かう娘たちを送り出していた老人だ。
それは前老主よりさらに前の老主だった。
他の老人たちも代々の老主たちだ。
なぜそれが自分にわかるのかヒラクには不思議だったが、すでにもう息苦しさはなかった。
ヒラクの体は淡い緑色の水に溶け出して、光を放ちながら形を失い始めていた。
(消える! おれが……)
前老主がしがみついていた足も形を失い、水に溶け込んでいった。
「……ヴェルダの御使いよ! 私を見捨てるのですか……! 私はプレーナと一つとなることも叶わず、この醜悪な鉛の鎧の肉体で……再び……澱みに……沈みこむ……」
前老主は悲痛な表情で暗い水底に沈潜し、その姿はやがて見えなくなった。
ヒラクは自分の意識に老主たちの意識が入り込んでくるのを感じた。
ある老主はプレーナの娘たちの祈りで穏やかな眠りにつくことを望みとしていた。
別の老主はプレーナの懐で平安を得ることを望んでいた。
さらに別の老主は自分の存在がプレーナそのものになることを願っていた。
ただ、どの老主たちも自分たちが老主であるという特権意識は常につきまとっているようだった。プレーナ教徒のためにプレーナへ我が身を捧げようとする崇高な精神も、プレーナ教の最高権威である老主としての立場からきているものにすぎなかった。
実体のない老主たちの意識が、淡く発光する水の中を漂いながらゆっくりと沈み込んでいく。
ヒラクの意識は何とか水面に浮上しようとしていた。
(誰か……おれをここから出して!)
その時、ヒラクは、中庭の泉の水草の隙間から仰向けの状態で浮かび上がってきたフミカのことを思った。
初めて出会った時のフミカの姿だ。
ヒラクは、その時のフミカに重ねて、水底から浮上する自分の姿を想像した。
気がつくと、ヒラクは何か柔らかいものが自分の体にまとわりつくのを感じた。
それは小さな白い花をつけた鮮やかな緑の水草だった。
ヒラクはゆっくりと目を開けた。
水膜の空が琥珀色の瞳に光を落とす。
ヒラクが泉の端に目をやると、自分とよく似た緑の髪の少女と目があった。
少女の琥珀色の瞳に映るのは、自分があの日見たフミカの姿だとヒラクは思った。
ヒラクが体を起こそうとすると、全身が水の中に沈んでしまった。
ヒラクは泉の底にある段差を足で確かめながら、少しずつ水の中から上がってきた。緑の髪には白い小さな花が絡みついていた。濡れた衣服は体にぴたりとはりついて、ひざ下のすそからしずくが落ちる。
ヒラクは琥珀色の瞳で水際の少女をじっと見た。
「……おれは誰?」
ヒラクは、まるで自分がフミカになったような気がしていた。
今目の前にいるのがあの日の自分なのではないか。
「……ヒラク」
少女はヒラクをまっすぐにみつめて言った。
「……ヒラク?」
ヒラクは少女に近づき、目の前に立った。
少女の瞳にヒラクが映る。
ヒラクの瞳にも少女がいる。
奇妙な既視感だ。
出会ったときの場面を逆の立場で演じている。
それなのにお互いの存在が重なり合うような感覚は同じだ。
「名前は?」
ヒラクは確かめるように少女に尋ねた。
少女は静かにつぶやいた。
「……フミカ」
「フミカ……」
ヒラクはかみしめるように繰り返した。
「フミカ……フミカ……フミカ……」
だが、そんなヒラクをフミカは悲しそうにみつめていた。
ヒラクはそれに気づかない。
そしてフミカに笑いかける。
「おれがヒラクで君がフミカ。そうだよね?」
フミカはただ困ったように微笑んでみせるだけだった。
その複雑な微笑みの意味にヒラクは気づかない。
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