第25話 告白
ヒラクはフミカと過ごした水晶の館の中庭のことを思い出していた。
「ヒラクもあの場所に行ったの?」
ヒラクは黙ってうなずいた。
フミカのことを話したかったが、ヴェルダの
「あの中庭で姉はほんの束の間の時間でも私と会うことを喜んだ。だけど私は祖母にみつかりたくないという思いがあったから、水を汲むと急いで母のところに戻っていった。そんな私を見送る姉は、いつもさびしそうだった」
やがてヴェルダの
「私は何度も姉に一緒に来ないかと言った。でも姉はそれを拒んだ。姉があそこでどのような時間を過ごしてきたのかは私にはわからない。ただ言えるのは、姉にはプレーナへの祈りだけが自分を支えるものだったということ。そして私は姉との間に次第に距離を感じるようになった」
ちがう世界を知ったヴェルダの
ヴェルダの御使いの母が娘を連れて水晶の館を去るとき、彼女の心にあったのは、ヴェルダの御使いの父にあたる若者のことだった。
若者のいる世界、若者が求めた娘のこと、今二人はどこにいるのか、自分のことは忘れてしまったのか、そんな想いがヴェルダの御使いの母の心に渦巻いていた。
また一方で、自分は我が子を守っていかなければならない、自分の娘だけでも無事に生かしたいという強い想いがあった。
プレーナから外に出る瞬間、ヴェルダの
キルリナが愛する者の子どもを生むために祈りの場として水晶の館を生み出したこと、ザカイロと再び会うことを望みながらも叶わなかったこと、そうした過去の記憶が次々とヴェルダの御使いの母の意識に入り込んできた。
ヴェルダの御使いがキルリナの最期を見届けるヴェルダの御使いの祖母の姿を見たのもこのときである。
ヴェルダの
遊牧民たちはセーカの民から得られる食糧をあてにしながら、オアシスからオアシスへ移動する生活を続けていた。
だが、自ら神を名乗る神帝が現れ、神帝国が興ったことで、セーカの民は作物を得るための土地を奪われ、食料調達は以前より困難なものとなってきた。
その食料調達にあたるセーカの狼神の旧信徒たちの中には、神帝にプレーナを滅ぼさせ、封印された狼神を復活させようという声も高まりつつあった。
今の遊牧民、プレーナ教徒、狼神の旧信徒の関係性が崩れ、プレーナ教徒たちからの捧げものがなくなれば、遊牧民の生活は成り立たない。
そこで、今一度、プレーナ教徒たちの信仰を強化し、捧げものを絶やさないようにする必要があった。
そして生まれたのが「ヴェルダの
ヴェルダの御使いの母はプレーナから汲み出す水をプレーナ教徒たちに与えることによって、彼らの信仰を強化し、それと引き換えの食糧を要求した。
遊牧民となった自分たち親子が生きていくためだった。
しかし神帝国の脅威と狼神復活の不安にさらされていたプレーナ教徒たちは、プレーナが遣わした存在として、「ヴェルダの
「ヴェルダの
遊牧民たちにとっては、「ヴェルダの
オアシスをみつける目を持つのも、食糧を得る手段としてのプレーナの水を汲み出すのも、ヴェルダの御使いとその娘にしかできないことだった。
だがヴェルダの
過酷な砂漠の移動生活という突然の環境変化は、それまでプレーナでしか生きたことのないヴェルダの御使いの母の体を想像以上に痛めつけていた。
ヴェルダの御使いの母が急激に体を弱らせていったのは、当時の老主にキルリナの想いを詰め込んだ小瓶を渡した後からだった。
悲願を果したことで気が抜けたのか、その頃にはもうヴェルダの御使いの母は、体力の衰えを気力で補うこともできなくなっていた。
亡くなったヴェルダの
この時ヴェルダの御使いは、まだ十五歳だった。
「母を失い、私がヴェルダの
ヴェルダの
ヒラクの母ウヌーアは、ザカイロとキルリナのことも、自分の父親と母親のことも何も知らず、男女の愛がどのようなものか想像すらしなかった。
自分はプレーナから一人で生まれてきたかのように、ウヌーアは思っていた。自分が選ばれた唯一のプレーナの娘であること、その誇りだけが彼女を支えていた。
妹であるヴェルダの御使いにとっては、それが何より哀れでならなかった。
「ヒラク、あなたが見た聖地プレーナの中には、プレーナの娘たちがたくさんいたと言ったわね」
「うん、いたよ」
ヒラクは木立の中の噴水の周りにいた娘たちのことを思い出してうなずいた。
「おそらくその娘たちは、プレーナの地を目指した娘たちを羨望した者たちね。自分たちもプレーナの娘となることを望んだ者たち。その想いが作り出した場所にあなたはいたのかもしれない」
「じゃあ、地上のセーカとして現れた聖地プレーナにいた娘たちは? あの娘たちはプレーナの娘になれなかった娘?」
ヒラクはもう一つの聖地の姿である地上のセーカのことを思い出して言った。
そこには若い娘もいたが、自分たちのことをプレーナの娘だという者は一人もいなかった。
「プレーナの娘のみがプレーナに到達できるとは思わない娘たちよ。そこにいた娘たちは、地上のセーカという楽園で、愛する家族と過ごすことを願ったのかもしれないわね。誰もが同じことをプレーナに望んでいるわけではない。自分こそが選ばれた者であることを望む者もいればそうではない者もいる。その場所にプレーナの娘が存在しないこと自体、そこにプレーナの娘という選ばれた存在が望まれなかったという証拠よ」
「じゃあヴェルダの
「ヴェルダの御使いがプレーナ教徒たちの前に現れる以前と以後の人々ということだと思うわ。でもいつの時代も人々の願いにそうちがいはなかったということね。地下での生活での救いは、地上の暮らしを夢見ることだったのでしょう。そして彼らの望みどおりの聖地はいつでもそれを望む者の前に現れるのよ」
「それで……幸せ?」
ヒラクにはよくわからなかった。
自分が信じるものが、自分が作り上げた幻に過ぎないとわかれば、人は失望するのではないだろうか……。
そんな思いがヒラクの中にあるのだが、それをうまく口にして言うことができない。ただもやもやと嫌な気分になるだけだった。
「何が幸せかなんて、他人には結局うかがい知ることができない。それがたとえ誰よりも近い存在であるはずの双子の姉であっても……」
そう言って、ヴェルダの御使いはうつむくと、急に顔をあげ、思いつめたような表情でヒラクの顔をじっと見た。
「ヒラク……、私はどうしようもない過ちを犯してしまった。あなたも、あなたのお母さんも、そして、私が愛したあの人も、傷つけることになってしまった」
ヴェルダの御使いの瞳が涙でうるんだ。
「……一体何のこと?」
自分をみつめるヴェルダの御使いの目が、それまでとはちがって見えてヒラクは戸惑った。
「あなたはやはり私が愛したあの人に似ているわ」
ヴェルダの
「その目の奥に燃えたぎる炎にこの身をさらされて、私はたった一度の恋をした」
「えっ、えっ?」
ヒラクはヴェルダの
「イルシカ……」
ヒラクはすぐには何も言えなかった。
どうしてその名前がヴェルダの
「どうして……」
ヒラクがやっとそれだけ言うと、ヴェルダの御使いは微笑んだ。ハッとさせられるほど美しい笑みだった。
「私が愛した人の名前よ」
そうして顔を背けたヴェルダの
ヒラクにはわけがわからなかった。
ヴェルダの
それは、ヒラクの父の名前だった。
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