第26話 父の恋

「私が愛した人の名前よ」


 ヴェルダの御使いはそう言った。


「イルシカ……」


 それはヒラクの父の名前だった。


 ヒラクは何となく気まずい思いで黙り込む。だが、自分の父親とヴェルダの御使いが一体どのような関係なのか、ヒラクは気になって仕方ない。ヒラクは上目遣いで目の前のヴェルダの御使いの様子を探りながら思ったことを口にした。


「あのさ、やっぱり、あなたがおれの母さん……なんてことは……」


 思いがけないことを言われて、ヴェルダの御使いは少し驚いた様子だったが、困ったようにヒラクを見て、どこかさびしそうに笑った。


「もしそうならどれだけよかったか……。だけど何がいいか悪いかなんて、結果を見るまでわからないわ」


 そしてヴェルダの御使いは、少しずつ語り始めた。


「出会いは今から十五年前。私がヴェルダの御使みつかいとなってから三年後のことだった。北の山のふもとで私は一人の男と出会った。男は全身傷だらけで、半死半生の状態だった。その男こそあなたのお父さん、イルシカよ」


 それは、ヒラクが生まれる前のことだった。

 アノイの村のおさの息子であるイルシカは、クマ狩りのため山に入り、そのまま行方知れずとなった。村の者たちは、イルシカは山の神の姿を借りたクマのしもべとなって神の国に行ったのだろうとうわさした。

 だが事実はちがう。

 イルシカは、確かにクマに襲われ傷を負っていた。そして必死にクマのなわばりを離れようとしたイルシカはそのまま道に迷い、山の反対側に出てしまった。


 アノイの地では、山の向こうは神々の住まう神の国だとされていた。だが、山の向こうには、草木一つ生えない荒涼とした砂漠が広がっていた。

 イルシカは、まるで幻覚に引き込まれるような思いで反対側の山を下っていった。

 そして、そこが神の国であるのか何なのか、確かめる前に力尽き、意識を失って倒れた。


 そこに現れたのがヴェルダの御使みつかいと遊牧民たちである。

 彼らはオアシスを追ってその近くまできていた。

 遊牧民たちはイルシカを助ける気などなかったが、ヴェルダの御使いはどうしても見過ごすことができず、そのとき現れたオアシスの場所までイルシカを運び、自分の小屋で世話をした。


「みつけたときのイルシカは、それはひどい状態で、意識を取り戻してもすぐには動くこともできなかった。それでもその目は生きることを決してあきらめていなかった。言葉も通じない、見た目もまるでちがう、それでも、私はイルシカの強く激しいその瞳に一目で心を奪われた」


 ヴェルダの御使みつかいは、遊牧民たちの中で孤独を感じることがしばしばあった。緑の髪と琥珀色の瞳は、灰色の髪とこげ茶色の瞳を持つ遊牧民たちの中で一際浮き立っていた。そのためヴェルダの御使いは、黒髪に黒い瞳を持つイルシカに、異民族同士の近親の情を抱いた。イルシカもまた、自分を献身的に世話するヴェルダの御使いに感謝するようになっていた。


「言葉は必要じゃなかった。私とイルシカが愛し合うようになったのはごく自然なことだった。私はイルシカを連れて次のオアシスまで移動し、しばらくはそこにとどまった。私たちはお互いの言葉も少しずつ覚え、自分のことを語り合うようになった。私には今までそんな相手は誰もいなかった。イルシカは私にとってかけがえのない存在になった。ずっと一緒にいたいと思った……。

 でも傷が癒え、時がくれば、村に戻ると彼は決めていた。そう彼に告げられたとき、私たちの関係はほんの束の間の夢に過ぎなかったのだと思った。私の父と母がそうだったように……。だから彼が私に言った言葉を最初は信じられなかった」


 今でもそのときのことをヴェルダの御使みつかいははっきりと思い出すことができる。



『俺と一緒に来い』


 イルシカは燃えるような目でヴェルダの御使いを見て言った。


 イルシカが山の向こうにあるというアノイ族の村から来たことは、ヴェルダの御使いも本人から聞いて知っていた。しかし、それはまるで別世界の出来事を聞くようなもので、彼女にはそれが現実のこととは思えなかった。ましてやそこにいる自分の姿など、ヴェルダの御使いには想像もつかなかった。


『無理よ、そんなこと……』


 そうは言ってもヴェルダの御使いはイルシカの言葉がうれしかった。だが戸惑いと不安が未来に影を落とす。


『おまえは俺のものだ。連れて行く』


 イルシカの決意は揺るぎないものだった。


『俺と共に生きろ』


 イルシカは強い意志を込めた目で、ヴェルダの御使いを見て言った。

 だがヴェルダの御使いはその言葉にうなずくことができなかった。

 イルシカはヴェルダの御使いを力強く抱きしめた。


『……怖いか?』


 ヴェルダの御使いはうなずいた。


『新しい世界でまた生まれ変わればいい』


 イルシカはヴェルダの御使いの耳元で優しく言った。


 ヴェルダの御使みつかいがプレーナを追放され、遊牧民として生きることになったことは、イルシカもすでに知っている。

 プレーナがどのようなものであるかはイルシカにはとらえきれなかったが、突然知らない世界で新しい生活を始めることになったヴェルダの御使いの戸惑いはよくわかった。

 イルシカには、プレーナと砂漠を行き来し続けるヴェルダの御使いが、居場所のない迷い子のように思えてならなかった。だからこそ彼女に安住の地を与えたいと思った。そして一生を共にし、彼女の居場所を守っていこうとイルシカは決意した。

 けれどもヴェルダの御使いはそんなイルシカの想いを素直に喜ぶことができなかった。



 当時のことを思い出しながら、ヴェルダの御使いはヒラクに言う。


「イルシカが私をアノイの地に連れて行くと言ったとき、うれしかったわ、本当に……。でもふとプレーナに一人きりでいる姉のことが頭をよぎった。私だけが幸せになることに、うしろめたさを感じたの。外の世界を一切知らず、誰かと心を通わせることも、愛し合う喜びも何も知らない姉が哀れでならなかった。……でもそれは私の独り善がりな感情だった。自分の望みが姉の望みでもあると思いこんだ私は傲慢だった」


 ヴェルダの御使いは恥じ入るように唇を固く引き結ぶ。


「結局私は目の前の幸せをつかむことができなかったというだけ。ただの臆病者だった。その言い訳に姉を使ったようなものよ。あのとき思い切ってイルシカの胸に飛び込んでいれば、誰も不幸になんてならずにすんだのに……」


 そしてある悲劇が起こった。

 

 すべては父とヴェルダの御使いの恋から始まったことだった。



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