第27話 大人たちの嘘

 イルシカは、ヴェルダの御使みつかいの中に迷いがあろうとなかろうと、強引にアノイの村に連れていくつもりだった。


 満月が近づいてきたある夜、少数の供を連れてセーカへと向かうヴェルダの御使いをそのままさらって、イルシカは山を越えようとした。


 遊牧民たちの野営地を抜けて、ヴェルダの御使いの後を追ったイルシカは、プレーナと遭遇することになる。


 気づけばイルシカは、アーチ型の銀の扉の前にいた。

 扉を開けると、そこには自分が求めるヴェルダの御使みつかいの姿があった。床にひきずるほど長い白い衣服をみにまとうヴェルダの御使いは、いつもとはちがう印象だったが、おびえたように逃げようとするヴェルダの御使いの腕をイルシカはとっさにつかみ、胸の中に抱きすくめた。


『逃げようとしても無駄だ。俺はおまえを連れて行くと決めた。俺と生きろ。俺の子を産め!』


 抱きしめられた女は微動だにしなかったが、やがて同意を示すかのように、イルシカの背に腕を回した。


 こうしてイルシカは扉の向こうから連れ出した女を自分の妻とした。

 それがヴェルダの御使いによく似た双子の姉であるとは気づかずに……。


 ヒラクの母はイルシカの愛を受け入れたわけではなかった。

 ただ彼女には子どもが必要だった。自分をプレーナへと送り出す娘の存在を求めていた。その求めに応じるように、聖堂の扉の向こうからイルシカが現れた。

 ヒラクの母はイルシカをプレーナに与えられた若者と思ったのだ。


 自分が故郷に連れ帰った女が愛した女とは別人であることを知ったイルシカの失望は大きかった。子を産むまでは戻らないという妻をアノイの地に残して、イルシカはヴェルダの御使みつかいに会うために再び山を越えた。


 満月の夜にセーカの民にプレーナの水を渡す「分配交換」がある。その時はオアシスがどこにあろうと、ヴェルダの御使いは一部の遊牧民たちと、セーカからそう遠くない北の山沿いに小屋を作って夜に備える。


 イルシカはヴェルダの御使いを探し、再会することができたが、二人の関係はもう二度と元に戻ることはなかった。



 ヴェルダの御使いは当時を振り返り、悲しそうに吐息する。


「私は嫌な女だった……。どうしても許せなかったの。間違いだったとわかってる。それでも、イルシカに裏切られた思いでいたし、私から大切なものを奪った姉のことも許すことはできなかった」



 それでもヴェルダの御使いは聖地の水を必要とする姉のために、プレーナから汲み出した水をイルシカに分け与えることを約束した。


 イルシカは満月が巡るたびに山を越え、ヴェルダの御使みつかいとの逢瀬を重ねた。だが二人はほとんど言葉を交わすこともなく、頭から足の先まで全身を黒装束で覆ったままのヴェルダの御使いは、イルシカに顔さえ見せることはなかった。



「満月の夜はイルシカにプレーナの水を手渡す日……。姉のためにしていることだと、私は自分に言い訳をした。だけどイルシカに会える喜びは隠しようもなかった」


 ヴェルダの御使いがヒラクに見せる表情は、まるで当時を思わせるような恋する女の顔だった。


 とはいえ、当時二人の密会は、イルシカが運んできた水瓶に水を移しかえながら、二言三言言葉を交わすだけというものだった。その内容も、ヴェルダの御使いが姉の様子を尋ねるというぐらいのものだった。だが、自分を嫌う妻との生活に疲れていたイルシカは、ある時ヴェルダの御使みつかいに言った。


『本当のおまえはここにいるというのに……。せめてその黒布を取り去って俺に姿を見せてくれ』


 だが、ヴェルダの御使いはこれを拒んだ。


『私はあなたの妻の影にすぎない。姿が見たいというのなら、早く家に戻るといいわ』


『……おまえはひどい女だ』


 イルシカもヴェルダの御使いもお互いに傷ついていた。

 それでも満月が巡るたび、ほんの束の間の時間を二人は一緒に過ごした。


 イルシカは、妹であるヴェルダの御使みつかいの代わりに姉ウヌーアを愛すことはできなかった。

 姿を見せないヴェルダの御使いの面差しを双子の姉に重ねても、ヴェルダの御使いへの愛しさが一層募るだけだった。

 それに双子とはいっても、ウヌーアとヴェルダの御使いは生き方も考え方もまるでちがう。何よりウヌーアはイルシカを決して愛そうとはしなかった。

 ウヌーアは、イルシカもアノイの地も村人も神々も何もかも否定して、ただプレーナに祈り、毎日を耐えるかのように過ごしていた。プレーナの娘であるという誇りだけが、ウヌーアを支えていた。



「イルシカが姉を愛せないと知って、私はどこかでほっとした。重い水を背負って山を越えることは並大抵のことじゃない。だけどそれでもイルシカは水を運び続けた。それが私に会うための苦しみだというのなら、やはり私はうれしく思う。それが姉のためというなら胸がつぶれそうになる。一体私はどうしたかったのか……。結局誰も幸せにはならなかった」


 ヴェルダの御使いは辛そうにため息を吐いた。


「……全部、あなたのせいじゃないか」


 堪えきれずにヒラクは言った。その表情はひどく傷ついていた。


「……そうね、全部私のせい。ごめんね、ヒラク……」


「あやまってほしいわけじゃない。ただ……」


 ヒラクは今の自分の気持ちをどう言葉で説明していいのかわからずに、悔しそうに目を伏せた。


 ヒラクはイルシカに裏切られたような気持ちでいた。

 それは、父の母への裏切りを許せないという気持ちとはまたちがうものだ。


 ヒラクは、自分がまったく知らないところで母とはちがう知らない女性を愛していたイルシカがいたということを、どう受け止めていいのかわからなかった。

 父親ではないイルシカの一面を知り、そこにはまったく自分の入る余地などないということが寂しく感じられた。


 何より、父と母が愛し合ってはいなかったという事実にヒラクは衝撃を受けていた。言い争う両親の姿を目の当たりにしたこともある。それでもヒラクは、父が水を運ぶのは母のためだと思っていた。母が父とはほとんど顔も合わさず、小部屋から出ないでいるのも、母は体が弱いからだと思っていた。二人は夫婦であり、自分の両親なのだという事実がヒラクを安心させていた。


 ヒラクにとってもっとも身近な夫婦といえば、イルシカの姉ルイカとペケルの夫婦だった。二人はとても仲がよかった。


 ヒラクはルイカに無邪気に尋ねたことがある。


『どうしたら子どもができるの?』


 ルイカは笑って答えた。


『夫婦が愛し合っていれば、自然と子どもができるのよ』


 ヒラクはその時のことを思い出していた。


 そして思った。


(そんなのうそだ……)


「大人はみんなうそつきだ……」


 ヒラクはぽつりとつぶやいた。


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