第28話 過去の真実
すべては誤解から始まった。
ヒラクの父は双子の姉妹の妹を愛したが、アノイの地まで連れてきたのは姉のほうだった。
その姉が子どもを産んだ。それがヒラクである。
自分の両親が愛し合っていたわけではないこと、過ちから自分が生まれたことに、ヒラクはひどく傷ついていた。
「ヒラク……」
ヴェルダの
「ごめんね。こんなことやっぱりあなたに言うべきじゃなかったわ」
「……こうなったら最後まで聞く」
ヒラクはヴェルダの御使いを挑むように見て言った。
ヴェルダの御使いは肩を落としてため息をつき、静かに話を続けた。
「……姉はイルシカの子をみごもった。ヒラク、それがあなたよ。プレーナの娘を生むという姉の願いが叶おうとしていた」
だがイルシカは男の子を望んだ。
ウヌーアは、もしプレーナの娘となる女の子が生まれたら、その子を連れてプレーナに帰ると決めていた。
イルシカは、もしも生まれてくる子が男の子なら、次に女の子が生まれるまでウヌーアを引き止めておくことができるかもしれないと思った。
イルシカは、ウヌーアを手元に置いておく限り、ヴェルダの御使いとのつながりも断たれることはないと考えた。
この時のイルシカにはもうヴェルダの
自分を
それでもイルシカはヴェルダの御使いのことをあきらめることはできなかった。
初めから、イルシカにとってウヌーアは、ヴェルダの御使いをつなぎとめるための道具にすぎなかった。
そしてヒラクが生まれた。
女の子だった。
イルシカはヒラクを男の子として育てた。
最初は、ヴェルダの御使いとのつながりを断ちたくないという思いがイルシカの中にはあった。だが、自分の手元で育てていくうちに次第に親としての感情が湧いてきて、ヒラクを手放すことは考えられなくなった。
「姉はプレーナの娘を生むことができたけれど、イルシカはあなたを手放そうとはしなかった。本当は女の子だということを私にさえなかなか言わなかった。でもヒラクの話をするあの人はいつもうれしそうだった。今まで見せたこともない優しい目をしていた。もしも私があなたの母親だったら、イルシカの隣で、彼と同じ目をして、あなたの成長を見守っていたのかしら……」
ヴェルダの
「……勝手なこと言うな」
ヒラクはぷいっと目をそらす。
ヴェルダの御使いに対する反発心のようなものがある。
自分が思ってきたことが事実とはちがうということに、だまされてきたような気分になっていた。
けれど、今自分が抱く苛立ちを目の前のヴェルダの御使いにぶつけると、まるで八つ当たりをしているような後味の悪さを覚え、ヒラクはよけいに不快な気分になった。
誰に肩入れするわけでもない。ヒラクには、母ではない別な女性を愛した父も、父を愛さずプレーナにのみその身を捧げていた母も、どちらも身勝手に思えた。
両親の愛や関心が自分以外のものに向いていたということが、ヒラクに疎外感を抱かせる。ヒラクは、両親の未知なる側面を認めず、あくまでも子どもの立場で、二人を否定し、裁いた。
「おれの母さんはあなたじゃない。父さんは、おれの父さんなんだ……」
そう言って、ヒラクは抱え込んだひざに額をおしつけた。
すべてを否定するように身を固くするヒラクにヴェルダの
「ええ、そうよ。私はあなたのお母さんじゃない……」
ヴェルダの御使いは声をつまらせた。
ヒラクは思わず顔をあげた。
ヴェルダの御使いの瞳に涙がにじむ。
ヒラクはヴェルダの御使いを傷つけたことに胸が痛んだ。
かといって、かける言葉もみつからない。
ヒラクはただ気まずそうに目をそらし、黙り込むだけだった。
「ごめんなさい。すべて私が悪いの。後悔しても遅すぎる。でも、もしも時間を戻すことができたなら……。イルシカと出会った頃からやりなおせたら……私は……」
「そんなこと今さら言ってもしかたない」
ヒラクはぴしゃりと言った。
「あの時ああすればよかった、こうすればよかったなんて、そんなの後になってからわかることだ。そのときそうしたかったって気持ちが一番大事なんだ。父さんがいつも言っていた」
「……イルシカが?」
「一番の後悔は、自分がそうしたかったと思うことをしなかったということだって。自分がそのときしたいと思うことができたなら、本当の後悔はしないって」
「そうね、あの人ならそう言うわね……」
ヴェルダの御使いはイルシカが自分に最後に言った言葉を思い出した。
『俺は後悔なんてしねぇ! 何度出会っても、やりなおしても、俺はおまえしか愛さない!』
「ヒラク……あのときのことをあなたは覚えているかしら」
突然ヴェルダの御使いが言い出した言葉にヒラクは何と答えていいかわからなかった。
「あの日、山を越えて母親を追いかけたあなたが引きとめようとしていたのは、私だったのよ」
その言葉にヒラクは驚いた。
かつて母と思ってすがったのは、今目の前にいるヴェルダの御使いだったのだ。
一体どういうことなのか……。
ヒラクは動揺を隠しきれなかった。
「えっ、どういうこと?」
ヒラクは混乱した。
「今から七年前、山を越えたあなたが母親とまちがえたのはこの私。イルシカと一緒にいたのは私なのよ」
ヴェルダの御使いはヒラクに打ち明けた。
「あのときおれが抱きついたのは、母さんじゃなくてあなただったの?」
その時のことを思い出しながら、愕然としてヒラクは言った。
ヴェルダの御使いはうなずいた。
「あの日も満月だった。私はイルシカに水を渡すためにいつも落ち合うあの場所に行った。でももう水は必要なかった。イルシカは姉を連れてきていた。そして姉をプレーナに戻すようにと私に言った」
その時のウヌーアは、ヴェルダの
『今すぐ私をプレーナに帰して! 私はプレーナの娘。プレーナを離れてもうこれ以上生きていけない……』
砂地にはいつくばって嗚咽するウヌーアの姿を間に、ヴェルダの御使いとイルシカは無言でみつめあった。そしてヴェルダの御使いは、憔悴しきったイルシカの様子に胸を痛めた。イルシカ自身もウヌーアとの夫婦生活にすでに疲れ切っていたのだ。
すぐにヴェルダの
「私は姉を自分の小屋に運ぶと、すぐにイルシカのもとに戻った。そうせずにはいられなかった。今さら謝ろうと思ったわけでもない。きちんと別れを告げたかったからでもない。きっと、ただ、会いたかっただけ……」
ヒラクが母の後を追い、山を越えた日のことだ。
ヴェルダの
イルシカは、狩り小屋で一夜を過ごし、夜が明けてから山を越えて家に戻る。山を越えるには丸一日はかかる。
その夜もイルシカは狩り小屋で一人眠ろうとしていたが、どうしても眠れずに、外に出て冴え冴えと辺りを照らす満月を見上げていた。
いつもそうしてヴェルダの御使いの訪れを待っていた。
もうそうやってヴェルダの御使いを待つこともないのだと、イルシカは空しく思った。
そこへ思いがけず、再びヴェルダの御使いが現れた。
イルシカは目を見張った。
『どうしてまたここに来たんだ?』
イルシカはヴェルダの御使いに尋ねた。
ヴェルダの御使いは何も答えない。
イルシカもそれ以上は何も尋ねず、ただ独り言のように月を見上げて言った。
『月を見るたびおまえのことを思い出す。知ってるか? 月は形だけじゃなく、色も日によってちがうんだ。温かく辺りを照らすこともあれば、冷たい光を放つこともある。でもな、どんな月でも結局月は一つなんだ。満ちても欠けてもどんな色でも、たった一つの月なんだ』
ヴェルダの御使いはイルシカの隣に立って同じように月を見上げた。
イルシカはヴェルダの御使いに向き直った。
『おれはただ、月を手に入れようとした愚か者か? それでもおれはおまえのことをあきらめたことなんてなかった』
イルシカのその言葉は、ヴェルダの御使いを喜ばせも悲しませもした。イルシカの自分への愛はすでに消えたものだとヴェルダの御使いは思っていた。そう思い込もうとしていた。
『憎まれた方がよかった……』
ヴェルダの御使いはイルシカに言った。
『そんなことできるわけがない』
イルシカはまっすぐにヴェルダの御使いをみつめる。その視線を避けるかのように、ヴェルダの御使いは頭の布を深くかぶってうつむいた。
『もう二度とおまえに会えないのか』
イルシカは、ヴェルダの御使いの顔をのぞきこむようにして言った。ヴェルダの御使いは顔を背ける。
『私のことはもう忘れて……。憎めないのならせめて……』
その言葉を言い終える前に、ヴェルダの御使いはイルシカの胸に引き寄せられた。イルシカはヴェルダの御使いを強く抱きしめた。
そして力をゆるめると、イルシカは思いつめたように言った。
『最後にもう一度、おまえの顔を見せてくれ!』
ヴェルダの
イルシカは頭にかかる布をおろし、ヴェルダの御使いの顔をあらわにした。
ヴェルダの御使いの緑の髪が月明かりに輝いた。
それを見たヒラクが、ヴェルダの御使いを自分の母親と思い込み、駆け寄ってきた。
ヴェルダの御使いにはすぐにヒラクが誰かわかった。
自分と同じ緑の髪の色の子ども。「母さん!」と泣きじゃくる姿……。
ヒラクとヴェルダの
「眠ってしまったヒラクを置いて、砂漠に姿を消したのは私……。あなたを深く傷つけてしまったのはこの私なの。それでもあなたをお母さんのところに連れて行くことはできなかった。イルシカの腕の中からあなたを奪い去ることはできなかった」
ヴェルダの御使いはヒラクを抱くイルシカをその場に残して姉のところへ戻った。その時ヴェルダの御使いは、もう二度とイルシカにもヒラクにも会うことはないだろうと思った。
「今、こうしてヒラクが目の前にいるということが不思議だわ」
ヴェルダの御使いは手をのばし、ヒラクにそっと触れようとする。
ヒラクは口をとがらせ目をそむけ、ヴェルダの御使いに触れられまいとするかのように体を退けた。
ヴェルダの御使いは少し悲しそうな顔をして、のばした手を引き戻すと、居住まいを正して言った。
「さあ、もうこれで私の話はおしまいよ。その後、姉はプレーナに戻り、私は水を汲み続け、満月の夜にはセーカへと運び、ヴェルダの
その時、入り口の戸を激しく叩く音がした。
それは、ヒラクを次の運命の流れへと押し出すものだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます