第31話 同時発生する記憶

 空から緑の雨が降る。

 地面に落ちた雫から草木が芽吹き、砂漠に緑が広がっていく。

 太陽の光が雨粒をきらめかせ、そこに宿る過去の情報が蜃気楼のように揺らめきながら甦る。

 一気に草木が増殖する。

 近くの羊の群れが遠くかすんだように見える。まるで統一性のない服装の人々が、それぞれちがう方角を目指して、馬に乗り、ラクダに乗り、あるいは自分のその足で歩いて通り過ぎていく。


 その中でもヒラクは不思議な光景を見た。


 人々が北山の方に向かってひざまずき、こぶしを胸の前で合わせて平伏低頭していた。赤い髪はセーカの民を思わせるが、肌の色は黄みがかっておらず、褐色に近い。 

 彼らの前に姿なき者がいる。

 ヒラクはそれを気配で感じ取った。穏やかで優しい気配だ。

 そこに意識を集中すると、姿なき者の感情のようなものが自分の中にも伝わって同調するようだとヒラクは感じた。のどの奥からこみあげてくるようないとおしさ、そして悲しさ、すべてを許すような温かさ、穏やかさ、それ以上の広がるような思いがヒラクの中に湧きだす。


(何者だ?)


 ヒラクはそこにあるものを目で捉えようとする。


 だが何も見えない。


 そしてその前にひざまずく人々すら一斉に姿を消し、代わりに祭壇の上に羊の死骸を乗せて祈りを捧げるセーカの民の集団が現れた。


 ヒラクの目には、それは同じ場所にそっくりそのまま人が入れ替わっただけの光景に見えた。


 そして先ほどからヒラクが目を凝らしていた姿なき者の気配が感じられる場所に、ぼんやりと輪郭が浮かび上がってきた。


 それは獣だった。

 じっとこちらをみつめる瞳にヒラクは見覚えがあった。


「おまえは……!」


 銀色の毛におおわれた大きな狼がそこにいた。

 母を追うヒラクを背に乗せて山を越えたのも、二度目の山越えでセーカにヒラクを導いたのもこの狼だった。


 羊を乗せた祭壇も祈りの人々も姿を消した。

 その場には銀色の狼だけが残った。

 狼はヒラクをじっと見ている。


 ヒラクはラクダで進みながら狼をずっと見ていた。

 ヒラクにはそれが過去の記録には思えなかった。

 狼の目は確かにヒラクのことをすでに知っているようだった。

 何より、歪む光景の中で、狼の姿はこれまで二度見たときとまったく同じように鮮明に存在しているのだ。触れればその背に乗ったときの銀の毛並みの感触まで甦りそうなぐらいだとヒラクは思った。


「あれは狼神ろうしんよ」


 ヴェルダの御使いがヒラクの横で言う。


「その原型ともいえるものね、きっと。狼神に祈りを捧げる人々が思い描いた狼神の姿が水に焼きついたのかもしれない。皮肉なものね。狼神の情報がプレーナに宿るなんて」


 ヴェルダの御使いはそう言うが、ヒラクにはそうは思えなかった。

 その狼の姿はプレーナとは別なところに存在しているように感じられてならないのだ。

 何よりヒラクは、その狼が血肉を好むといわれる狼神とはずいぶんちがったものであると感じている。むしろ、一瞬感じた姿なき者の穏やかさや悲しみのような感情が、その狼の中にある気がした。


「ヒラク!」


 狼の方に向かおうとしたヒラクをヴェルダの御使いが呼び止める。


「プレーナの記憶に惑わされちゃいけない。今はここを抜け出すことだけ考えて」


 ヴェルダの御使いの言葉に従い、ヒラクは遠ざかる狼を振り返りながら先を急いだ。



 やがてセーカの町らしきものが見えてきた。


 岩場が近づいてきたところで、ヴェルダの御使いは絶望した。


 そこには奇岩群はなく、砂漠の風に浸食される以前の岩屋が立ち並んでいる。

 そこはセーカの町だった。

 つまりプレーナの中に宿る地上のセーカの姿だ。


「遅かった……。私たちはもう完全にプレーナの記憶に閉じ込められてしまった」


 ヴェルダの御使いは、セーカの町の前でラクダを降り、そのまま力が抜けたようにその場に座り込んだ。


「もう他に方法はないの?」


 ヒラクもラクダを降り、ヴェルダの御使みつかいに尋ねた。


 ヴェルダの御使いは背後の砂漠を振り返る。そこには緑の大地がいまや完全に甦ろうとしていた。目の前の光景も次第に薄れていく。地上のセーカも当時の人々の姿も雨に煙って霞んでいった。


 そしてそれと同時に、ヒラクとヴェルダの御使いは、お互いの姿が緑に発光しだしたことに気がついた。


「ヒラク……。私に一つだけ考えがある」


 ヴェルダの御使いは、光に溶け出す自分の手のひらを見ながらつぶやいた。


「私の記憶に入りなさい」


 ヴェルダの御使いは決意を秘めた瞳でヒラクを見た。


「どういうこと?」


 ヒラクはわけがわからない。


「私が私であるうちに、私の記憶に入りなさい。プレーナの形態となってあなたは他人の記憶に入り込んだことがあったわね? 同じ形態の者の記憶に入り込むことがどういうことになるかはわからないけれど、だからこそ可能性がある」


「ちょっと待ってよ、おれにどうしろっていうの?」


「私はこれからあなたに水の結晶の館の記憶を伝えるわ。プレーナの一部である私の記憶の中の聖堂から外に出なさい。聖堂の扉の外にあなたの存在したい世界がある」


「そんな、無茶だよ、そんなこと」


 ヒラクは動揺した。


「いい? あなたはこの雨とともに自分の力でプレーナから出てきたのよ。あなたにならできるわ。あなたには、世界を力がある」


 ヴェルダの御使いは力を込めて言う。その姿はすでに光と水の形状となりつつある。それはヒラクも同様だ。


 ヴェルダの御使いは立ち上がり、ヒラクと向き合う。


「いいわね? ヒラク」


「待って!」


 ヒラクは目の前のヴェルダの御使いを不安げに見上げる。


「あなたは? あなたはどうなるの? おれがあなたの記憶に入って、そしてあなたはどうなるの? 一緒にここから出られるの?」


 ヴェルダの御使いは力なく笑う。


「だいじょうぶ。私は消えたりしない」


 その言葉にヒラクは少しほっとした。

 そしてヴェルダの御使いは、腰をかがめてヒラクの額に自分の額を近づけた。


「さよなら、ヒラク。これからは、私はあなたの記憶の中に存在するわ」


 その言葉を聞き取ったかどうかのうちに、ヒラクは吸い込まれるように緑の光のプレーナに呑まれていった。

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