第32話 秘密のくちづけ

 気がつくと、ヒラクは見覚えのある中庭にいた。泉のそばに立つ人物と同化して何かを待っている。


(そうか……。おれ、今、あの人の記憶の中に入ってるんだ)


 ヒラクは自分がヴェルダの御使みつかいの記憶の中に入っていることを知った。今、ヒラクはヴェルダの御使い本人として過去の記憶に存在している。


 そこはヴェルダの御使いが記憶している水晶の館の中庭だ。


『フミカ』


 背後から声がしてヒラクは振り返った。


(フミカ!)


 そこにいたのは、ヒラクが水晶の館の中庭で一緒に過ごした少女、フミカだった。だがその少女は、過去のヴェルダの御使いの中に入り込んでいるヒラクに向かって「フミカ」と呼んだ。


 ヒラクはヴェルダの御使いが遊牧民たちに「フミカ」と呼ばれていたことを思い出した。


(やっぱり「フミカ」はこの人の名前だったのか)


 では目の前のこの少女は誰なのか? 


 長い緑の髪、抜けるような白い肌、透き通る琥珀色の瞳の寂しげなこの少女は、確かにヒラクが一緒に過ごしたフミカだ。


『元気にしていた? 


 ヒラクの口から声が出る。

 それは過去のヴェルダの御使みつかいの言葉だ。


(姉さん……?)


 目の前の少女はヴェルダの御使いの双子の姉、つまりヒラクの母親だ。

 ヒラクは混乱していたが、ヴェルダの御使いの過去の記憶の中の双子の姉妹の会話はつづく。


 ヒラクがみつめている中庭の少女は、声を掛けられてうれしそうに小さく笑う。


『外の世界はどう?』


 少女は、ヒラクが入り込んでいるヴェルダの御使みつかいに尋ねた。


『ここにはないものばかりよ。見るものすべてが新しいわ』


『そう……』


 過去のヴェルダの御使いが答えると、少女は表情を暗くしてうつむいた。


『でもたいへんなことも多いわ。母さんも……』


 言いかけて、ヴェルダの御使みつかいはハッとして言葉を止めた。

 ヒラクの心にヴェルダの御使いが抱いた後ろめたさが伝わった。


『いいのよ』


 少女は悲しそうに微笑む。


『姉さん、母さんも姉さんに会いたいと思っているわ。ここから出ようとは思わない?』


 ヴェルダの御使みつかいの言葉に少女は静かに首を横に振る。


『私はあなたのように母さんから名前を与えられたわけじゃない。プレーナの娘であるドゥーアとして生きることでしか、私は私でいられない』


『そんなことない。姉さんは私の姉さんじゃないの』


『でもあなたはここにはいないじゃない』


 何の感情もないガラス玉の瞳にみつめられ、ヒラクの胸が針で刺されたように痛んだ。それはその時のヴェルダの御使いの痛みなのだろうとヒラクは思ったが、目の前の少女を見ていると、なぜか自分も悲しくなった。


『あなたがいなくなってから、私は欠けてしまったわ。不完全な私は誰からも必要とされないの。おばあさまは私に完全を求めるけれど、あなたがここにいないのに、どうしたら完全になれるというの?』


 少女はどこまでも無表情で淡々と話す。

 涙があふれたのはヒラクが一体化している過去のヴェルダの御使みつかいの方だった。


『姉さん、そんなこと言わないで。私たちはずっと一緒よ』


『いつかまた一つになれる?』


『姉さんが望めばいつでも一緒になれるわ』


(ちがう……)


 ヒラクは二人の心がすれちがっていることに気がついた。

 ヒラクが感じているヴェルダの御使いの思いは、外に姉を連れ出したいというものだ。だが目の前の少女は、それを望んでいないように見える。


『だから姉さん、そんなに暗い顔しないで。秘密の遊びをしましょうよ』


 気をとりなおすようにそう言うと、ヴェルダの御使いは少女の腕をつかみ、緑の水面に浮かぶ透明な遊歩道を駆けだした。


 そして遊歩道の脇にある大きな樹木の前で二人は足を止めた。

 ヴェルダの御使いは先の尖った水晶を取り出し、幹に小さな穴をあけた。


『何するの?』少女は咎めるように言う。


『おばあさまに叱られるわ』


 おろおろとする姉にヴェルダの御使いは明るく笑って言う。


『平気よ。みつからない。二人だけの秘密よ』

 

 ヒラクはヴェルダの御使いの目を通して、不安そうな少女の顔を見た。


 やがて幹の穴からどろりとした飴色の樹液が溢れてきた。


 ヴェルダの御使みつかいは穴に口をつけて飴色の樹液を吸った。

 樹液はかすかに甘く、青臭い木のにおいがする。


 ヒラクは自分もフミカと過ごした中庭で同じことをしたことを思い出した。

 その時フミカがヒラクに言ったように、ヴェルダの御使いは少女に言う。


『やってみて』


 その言葉で、少女はおそるおそる樹液の滴る穴に口を近づけた。


『どう? おいしい? オアシスで遊牧民たちがやっているのを見たの』


 そう言った後、こちらに顔を向けた少女を見てヴェルダの御使いは笑った。

 少女の口の周りにべっとりと飴色の樹液がついている。


『姉さん、子どもみたいね』


 その言葉の後、ヒラクは自分の顔が少女の目の前に近づくことに驚いた。

 ヴェルダの御使みつかいは少女の口元をぺろりとなめた。

 少女は驚いて目を見開いた。

 そんな少女にヴェルダの御使いは言う。


『遊牧民たちがやっていたの。本当は唇と唇をくっつけるんだって。相手と近づきたい、一体感を味わいたいって思ってする行為だそうよ。いけないことだと母さんは言ってたけどね』


 すると今度は少女がヴェルダの御使みつかいに顔を近づけ、唇をそっと重ねた。


『いつか完全になるために、もう寂しくないように……』


 まるで願いをかけるように、離れた少女の唇がささやく。

 少女はヴェルダの御使いを抱きしめた。


『あなたとプレーナに還りたい。そこでまた私たちは一つになるの。そうしたらずっと一緒よ。寂しくないわ』


 だが抱きしめられたヴェルダの御使いは、二人の間にどうしようもない距離があることを感じていた。


『……もう行かなきゃ』


 過去のヴェルダの御使みつかいは少女からそっと体を離した。

 目を伏せたヴェルダの御使いは少女の表情を捉えることはなかったが、ヒラクは少女の傷ついた顔が目に浮かぶようだと思った。


 ヴェルダの御使いは泉の水を湛えた大瓶を抱えて、中庭を後にしようとする。

 このままヴェルダの御使いの体に入り込んだままの状態で聖堂の扉から外に出れば、もといた世界に戻れるのかとヒラクは思ったが、今ここに一人で少女を残していくことがどうしてもできなかった。


 そんなヒラクの想いとは裏腹に、ヴェルダの御使いは中庭を出て聖堂へ続く階段を上がっていく。

 そして人の気配をうかがいながら聖堂に入り、アーチ型の銀の扉の前に立った。


 聖堂の扉が開いた。


 だが孤独な少女の姿がヒラクの脳裏に焼きついて離れない。


 次の瞬間、ヒラクは扉の向こうに出たはずの自分が再び中庭にいることに気がついた。


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