第33話 ホルカ

 ヒラクはヴェルダの御使みつかいの記憶の中の水晶の館にいる。

 しかし今は過去のヴェルダの御使みつかいの姿ではない。

 だが自分としての実体もない。


 ヒラクは中庭全体を見下ろしていた。

 そして泉のそばに一人で佇む少女の姿を捉えた。


 ヒラクはそこに焦点を合わせた。

 すると映像が拡大していくように少女が近づき、気づけばヒラクは少女のそばにいた。


 少女にはヒラクの姿は見えていないようだ。

 ただ一人で寂しそうに泉の水面に映る自分の姿を眺めている。


「ねえ、フミカ、そこにいるんでしょう?」


 少女は水面の自分に呼びかけ、そして自分で答えた。


「私はいつでも一緒にいるわ。だってあなたがフミカじゃない」


 少女は水面の自分とみつめ合いながら悲しげに微笑む。


「そうね、私はフミカ。外の世界にいるあなたの内側に存在する私。私はあなた。二人なら完全になれる」


「ちがうよ、あなたはフミカじゃない」


 その言葉とともに、ヒラクは中庭に姿を現した。


「フミカ……なの?」


 少女は自分と同じ白い服を着た姿のヒラクを不思議そうに見る。


「ちがう、おれはヒラクだ」


「ヒラク?」


 少女のガラス玉の瞳に映るヒラクは全身から緑の光を放っていた。


「あなたはプレーナ?」


「……どうかな。確かにおれは今プレーナに溶け込んでいる。でもおれにはヒラクという名前がある。おれはおれ、ヒラクとしてここに存在している」


「よく、わからないわ」少女は無表情で言う。


 ヒラクは少女の前に立ち、そっと優しく抱きしめた。


「あなたはプレーナでもない。ドゥーアでもない。そしてフミカでもない。誰でもないよ。あなたはあなたでたった一人のかけがえのない存在だ」


「誰でもない……私?」


「おれにとってあなたは、誰の代わりにもなれない特別な存在だ。憎しみも悲しみも、感謝もすべて何もかも、この胸にある想いは全部あなたに、あなただけに向けられたものなんだ。……


 抱きしめる手に力がこもる。

 ヒラクは少女時代の母を悲しく、いとおしく思った。


「あなたがあなたであるために、必要なものをおれがあげる」


「必要なもの?」



 ヒラクは母に呼びかけた。


「それがあなたの名前だよ」


 それはアノイの地を去った母の呼び名だった。アノイの言葉で「後戻り」という意味だ。ヒラクにとってはそれがずっと母の名前だった。


「ホルカ? 私の名前?」


 少女の姿をしたヒラクの母は、不思議そうにぼんやりとつぶやく。


「そうだよ。他の誰でもないあなた自身の名前だ。あなたはあなたで、そのままで、完全な存在なんだ。行こう、ここから出るんだ」


 ヒラクはホルカの手を引いて走りだした。


 中庭を抜け、階段を駆け上がり、二人は聖堂に飛び込んだ。


 アーチ型の扉の前でヒラクはホルカをみつめて言う。


「一緒に出よう。もう誰も待つことはない。ここに縛りつけるものは何もない」


 ヒラクは聖堂の銀の扉を開けて外に出た。

 だがホルカは扉の向こうへ行こうとはせず、聖堂に留まっている。


「どうして? 母さん」


 扉だけを残して聖堂が消えようとしていた。

 ヒラクの体も緑の光を放ちながら実体を失おうとしている。


「早く、こっちへ!」


 ホルカの腕をつかんだヒラクの手が形を失い、溶け出して周辺の光と一体化しようとしている。


 すでに辺りは緑の光で満たされていた。

 だが扉を隔ててホルカのいる側は闇に落ちようとしている。

 ホルカだけがぽつんと闇の中に白く浮かび上がっていた。


(母さん、こっちへ来るんだ!)


 実体を失ったヒラクの思念が扉の向こうの闇に緑の光を放射する。

 だがホルカは闇の中で静かに微笑むだけだ。


(母さん!)


 次の瞬間、ヒラクは急浮上する感覚に包まれた。


 そして見たのは、巨大な砂時計のようなプレーナ全体の姿だった。


 上の部分には太陽や木々や空が渾然一体となって緑の水として溶け出していく光景が見える。

 そしてくびれた部分を通って下に吐き出されるのは緑の雨と芽吹く大地だ。


 ヒラクは大地に意識を向けた。

 するとまるで空から大地全体を見渡すような視界になった。

 そこにヒラクは黒装束の民の一団をみつけた。

 緑の雨に打たれながら、彼らはラクダを進めている。

 そのすぐ先にはセーカの奇岩群があった。

 そしてセーカに数百名の兵士からなる神帝国の兵団が隊列を成して迫ってくる。


(一体何が起ころうとしているんだ……?)


 ヒラクがそう思ったとき、別な思いが伝わってきた。


―ヒラク、私に意識を向けて!


(誰? 母さん?)


 その言葉に反応した直後、ヒラクは奇岩群を背景にした緑芽吹く大地の上で、母と同じ白い服のまま仰向けに倒れていた。


 雨はすでに止んでいた。


 琥珀色の瞳がヒラクを見下ろしていた。


「あなたは……」


 それは過去の記憶ではなく、今実在するヴェルダの御使みつかいだった。


「無事、抜け出せたようね」


 ヴェルダの御使いはほっとした顔でヒラクを見た。


「あなたも無事で……よかった」


 ヒラクも安堵の笑みを向けた。

 ヴェルダの御使いは静かにうなずく。


「まさか私まで助かるなんてね。私自らがプレーナの記憶の媒体となることで、あなたを助けることができると思ったけれど、私自身の実体は消失すると思っていた。でもまさかこんなことが……」


「一体何があったの?」


 ヒラクは体を起こして尋ねた。


「気づかなかったの? あなたが出てきた聖堂の扉は私の記憶の中ものじゃなかったのよ。そして同じ扉が私の前にも現れた」


「それは、母さんの記憶の扉?」


 ヒラクは扉の向こうの闇に浮かぶホルカを思い出した。


「ええ、でも私には何が起こったかわからなかった。もう自分という意識も私にはなかった。でも闇の中で声がしたの。『フミカ』と私を呼ぶ声が。そして呼び声に応じると、目の前に少女時代の姉さんがいた」


「ホルカ……」


「ホルカ? そう、姉も自分のことをそう名乗った。なぜ?」


「母さんの名前だよ……。おれがつけたんだ」


 ヒラクはぽつりとつぶやいた。


「そう、そうだったの……ホルカ……」


 ヴェルダの御使いはかみしめるように言った。


「姉さんは言った。『私はホルカ。あなたはフミカ。もう待たないから行きなさい。私もやっと行けるから』と」


「母さんはどこに行ったの?」


「……わからないわ。何もかもわからないことだらけよ。あれがプレーナの中のただの過去の記録なら、同じことを繰り返すだけのはずなのに。なぜ新しい名前を持ち、新しい意識を持つことができたのか……」


「わからない。でも、おれにはホルカがただの過去の記録だなんて思えない。五歳のおれだって確かに存在していたし、今でもちゃんとここにいる」


 ヒラクは胸に手を当て目を閉じた。

 そこには確かに傷を負った五歳の自分がいる。

 しかしもうその頃の自分は同じところに留まっていないとヒラクは思う。

 これからの自分と一緒に成長していくのだろうと。


 ヒラクの運命は次の展開を迎えようとしていた。


 しかしその幕開けは、凄惨な悲劇と共に訪れることになる。


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