第34話 信仰の崩壊
雲間から光が差すと、雨粒は微細な光の粒子と化し、その場の空気全体が緑色に輝いて見えた。
ヒラクとヴェルダの
今いるのは分配交換の儀式をした場所だ。
だがそこはもうかつての砂漠ではなかった
やがて、黒装束の一団が到着した。
彼らはすっかり疲れきった様子だったが、ヴェルダの御使いの姿をみつけると、一斉に沸き立った。
「フミカ!」
先頭の男がヴェルダの御使いをみつけて叫ぶ。
ラクダを急がせようとする遊牧民たちの不安と混乱の波が打ち寄せる。波頭を受け止める防波堤のように、ヴェルダの御使いは表情を引き締めて微動だにせず立っている。
「見失ったと思ったら、やはり先に来ていたのか」
「どういうことだ? 雨はすでに止んでいる。それにこの大地は……」
「フミカ、なぜ砂漠が消えたの? この大地はオアシスと同じものなの?」
遊牧民たちは次から次とヴェルダの御使いを取り巻き、質問を浴びせかける。
「こいつは誰だ?おまえと同じ緑の髪じゃねぇか」
遊牧民の一人は、そばにいるヒラクを見て困惑しているが、その言語はヒラクにも理解できないものだ。ただその言葉の意味はともかく彼らが混乱状態にあることは、ヒラクにも容易に理解できる。
だが混乱しているのは彼らだけではなかった。
ヴェルダの御使いとヒラクが二人きりでいるときからずっと奇岩群の中から様子をうかがっていた者たちがいる。
そのうちの一人が姿を見せた。
「どういうことなんだ!」
その声にヒラクは振り返った。
そこにはカイルが立っていた。
「カイル!」
ヒラクはカイルに近づいた。
「誰だ? おまえ」
「おれだよ、ヒラクだよ」
「え? おまえ……ヒラク?」
カイルは驚いてヒラクを見た。目の前のヒラクはカイルが知るヒラクの姿ではない。ぼさぼさの散切り頭だった緑色の髪は艶やかで、肩の上で切りそろえられ、前髪も短くなっている。黄みがかった肌は抜けるように白く、目の色も薄い琥珀色に変わっていた。
だがカイルはその目に強い意志の光を見た。それは紛れもなくヒラクの目だ。
「おまえ、プレーナに行ったんじゃ……それにその姿……」
カイルはヒラクの母語でもある「祈りの言葉」と呼ばれるプレーナ教徒の言語に切り替えた。
「カイル!」
その時、岩陰から二人の様子を見ていたシルキルがたまらず姿を現した。
カイルの仲間であるセミル、サミル、ジライオに加えて狼神の旧信徒であるハイルとクライロも一緒にいた。
シルキルは近くでヒラクを見て驚いた。
「本当に女の子だったんですね……」
一つなぎの白い衣服を着たヒラクの姿を見て、シルキルは気が抜けたように言った。
「それよりユピは?」
ヒラクははやる気持ちを抑えきれずに尋ねた。
「ここにはいません」
シルキルは困ったように答える。
「いないってどういうこと!」
「それは……」
ヒラクにつかみかかられて、シルキルはたじろいだ。
「その話は後だ。それより先にこの状況を説明してもらおう」
カイルは黒装束の一団をにらみつけて言った。
「こいつらは何だ? 黒装束の民がなぜこんなにたくさんいる? セーカに一体何しに来た?」
カイルは神経を尖らせる。
「私が説明する」
ヴェルダの
「おまえは……」
「私はヴェルダの
ヴェルダの御使いはプレーナ教徒の言語を使ってカイルに言った。
「もっとも、それも今日で終わる」
そう言って、ヴェルダの御使いは黒装束を脱ぎ捨てた。
ヒラクと同じ緑色の髪が露わになった。髪の色だけではなく、ヒラクの母親と双子のヴェルダの御使いは、その琥珀色の瞳の色も面差しもヒラクと似ている。
「黒装束の民の正体は、この地に昔から暮らす遊牧民だ。プレーナの守護者でも聖者でもない」
ヴェルダの御使いは立てえりの長衣に腰布を巻いた姿をカイルたちの前にさらした。
カイルもシルキルも、すぐにはそれがどういうことなのか理解できなかった。
「プレーナは滅びた。大地は甦った。もう、おまえたちをここに縛りつけるものは何もない。だから……」
ヴェルダの
「だから早くここを去れ。神帝国の兵士たちが迫っている」
その言葉でヒラクは自分が見た光景を思い出した。
「じゃあ、おれが見たあの光景は……」
ヒラクの言葉にヴェルダの御使いはうなずく。
「まちがいない。神帝国の者たちがすぐそこまで来ている」
「ちょっと待てよ、俺には何のことかさっぱり理解できない」
カイルは混乱しながらも、神帝国が迫ってきているという言葉に激しく動揺した。
「あなたたちが手引きしたのですか?」
シルキルはヴェルダの御使いに尋ねた。
「そんなことあるわけないだろ」
ヒラクに一喝されると、シルキルは身を縮め、目を伏せて黙り込んだ。
「私はここにいるプレーナ教徒たちにプレーナが滅びたことを告げにやってきた。そして黒装束の民たちの正体を明かすために……」
ヴェルダの御使いはカイルとシルキルに言うが、その視線はカイルたちの背後を捉えていた。
「どういうことですか」
そう尋ねてきたのは、こちらに近づいてきていたアクリラだ。
何者かに殴られて意識を失っていたアクリラは、シルキルの
「どういうことか教えてください。あなたはヴェルダの
アクリラは身を震わせながら、ヴェルダの御使いに近づいていく。
「アクリラ、何やってるんだ」
カイルはアクリラのそばに駆け寄った。
だがアクリラはカイルを振り切るようにして、ふらふらとヴェルダの御使いに近づいた。
「プレーナが滅びたってどういうことですか? 黒装束の民の正体って何? 答えて!」
アクリラはヴェルダの御使いの両腕をつかみ、体を揺さぶるようにして、すがるような目で言った。
ヴェルダの御使いはその目を避けながら答える。
「……言葉のとおりだ。プレーナはもういない。私ももうヴェルダの
「私たちをだましていたの?」
アクリラの声が震える。
「私たちは一体何を信じてきたの? 多くの命は何のために捧げられたの? 祈りはどこに届いたというの? 意味などないの? 私たちは……私は、一体何のために……」
アクリラはその場に崩れ落ちるように膝を落としてうなだれた。
多くのプレーナ教徒の死を目の当たりにしたアクリラは、祈りの果てにあるものが何であるのかわからなくなっていた。
祈りそのものに意味があるのか……。
心の平安をひたすら願ってきたアクリラは、結局祈りは届かないのだと思い知らされただけだった。だがその絶望すら、自分が求めた神の消失を知った衝撃に比べれば大したものではなかった。
「大地は甦った。私たちの罪は消えた。それがプレーナ教徒の願いだった」
アクリラは地面に向かって言葉を吐くと、溢れる涙を拭いもせず、脅えたような、恨みのこもったような目で、ヴェルダの御使いを仰ぎ見た。
「でもプレーナが滅びることを願っていたわけじゃない。これじゃ私たちは救われない。救いなんてどこにもない!」
アクリラは悲痛な声で訴えると、その場にはいつくばったまま、全身を震わせて涙で大地を濡らした。
「すまない……」
ヴェルダの御使いはアクリラから顔を背け、声を押し殺して言った。
ヴェルダの
だがプレーナ教徒たちを縛りつけていたのは、プレーナというよりも、むしろ彼らの信仰そのものであり、祈りは彼らの自縄自縛の鎖といえた。
鎖でつなぎ止めていたはずのプレーナが消えてしまった今、後に残された彼らの行き場のない思いはどこにも昇華することなく、虚無の闇をさまよい続けるだけだった。こうなるとむしろプレーナに祈りを捧げたまま死んでいった者たちの方が幸せだった。
自分の人生の核であったものを失ったアクリラは、未来とともに、これまでの人生のすべてが音を立てて崩れていくのを感じた。今の彼女は生きることも死ぬことも同じぐらい怖かった。
「私に、何かできることは……」
ヴェルダの御使いはアクリラに手をのばそうとした。
その時だった。
黒装束の民たちをめがけて矢が一斉に飛んできた。
そうかと思うと、大津波が押し寄せるように、砂埃を巻き上げながら板金鎧の兵士を乗せた装甲馬が迫ってきた。
遊牧民たちは恐怖と混乱で逃げ惑う。絶望の叫びや恐怖の悲鳴がそこかしこで上がる。
騎兵たちは白いマントをなびかせながらいっせいに剣を振りかざすと、遊牧民たちを一気に取り囲み、逃げ惑う者たちを背後から、頭部から、容赦なく斬りつけた。
悲鳴が一つ一つ消えていく。
騎兵たちが引き上げたときには、子どもの泣き声さえしなかった。
それは一瞬の出来事だった。
緑の大地の血の惨劇を誰も予想だにしなかった。
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【セーカ編の登場人物】
カイル…プレーナ教徒で「罪深き信仰者」。初めはヒラクを敵視するが、利害が一致したことで共に分配交換の儀式をつぶす。
シルキル…狼神の旧信徒居住区に住む学者一族の末裔。祖父がかつてヴェルダの御使いから預かっていたプレーナの水が入った小瓶がセーカを崩壊に導く。
アクリラ…敬虔なプレーナ教徒。ヒラクをヴェルダの御使いと思い込み、地下都市セーカに招き入れる。
https://kakuyomu.jp/my/news/16817330655333099336
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