第30話 緑の雨
降り続く雨の中、ヴェルダの
長時間降り続く雨で砂漠の砂はぬかるんでいる。荷物を捨てたとはいえ、濡れた砂地に足が沈んで、ラクダは遅々として進まない。それでも遊牧民たちは、うまくバランスを取りながら、ラクダにしがみついていた。
セーカはそれほど遠くはないが、なかなかたどり着けないでいた。
遊牧民たちは確かにヴェルダの御使いのことを「フミカ」と呼んでいた。
ヒラクはそのことが気になってしかたなかったが、今はぬかるみに足を取られるラクダにしがみつくだけで精一杯で、余計なことは考えられない。
体力の消耗が、ヒラクの意気地をくじく。
それでなくともヒラクには、出発前から嫌な予感があった。
それは、五十数名からなる黒装束の民がセーカに潜入するということが、どういう結果を引き起こすのかという不安だった。
そしてその不安とは別に、先ほどからヒラクは何かよくないことが起こるような不穏な空気を感じている。
(何かがおかしい……)
ヒラクのすぐ前を行くヴェルダの御使いも同じように感じていた。
なかなか先へ進まないとはいえ、そろそろセーカの奇岩群が見えてきてもいい頃だ。それなのに、一向にセーカが近づいてくる感じがしない。
ヴェルダの
しとしと降り続く雨は、ますます細かく霧のようになってきた。
辺りの景色が煙ったように霞んでいく。
(この感じ……)
ヒラクはハッとした。
それはヒラクが水に取り込まれたものを見るときに起こる感覚だ。
そう思った時にはもう、辺りに気配が色濃く漂い、すでに何かが顕現していた。
「オアシスだ! オアシスが現れたぞ!」
突然声がして、黒装束の一団がヒラクの横を追い抜いていった。
「ちょっと待って! みんな、どこに行くの」
ヒラクはあわてて後を追おうとした。
「待って、ヒラク」
ヴェルダの御使いはヒラクを止めた。
「よく見て、砂漠全体を」
そう言われてヒラクが見たのは、あちこちに蜃気楼のように現れたオアシスと、それに向かってラクダを進める数々の黒装束の民の群れだ。
「一体何が起きているの?」
ヒラクは驚きながらヴェルダの御使いに尋ねた。
「過去の記録が同時発生している」
ヴェルダの御使いは表情を固くする。
「どういうこと? なんでこんなに黒装束の民がたくさんいるの?」
ところが、ヒラクがそう言っている間に、黒装束の民たちの姿は消え、かわりに古くこの地にいた騎馬民族の一群が前後左右を駆け抜けた。
「黒装束の民はどこに行ったの?」
ヒラクの言葉に目の前の光景は追いつかない。今度はセーカの民が羊を放牧している姿があちらこちらに見られた。
「ヒラク、ここにいてはいけない。早くセーカへ!」
そう言って、ヴェルダの御使いはラクダの脚を速めた。
「ちょっと待ってよ。一緒にいた遊牧民たちは? みんなどこに消えたの?」
ヒラクは先を行くヴェルダの御使いの背中に向かって叫ぶ。
「誰も消えていない。おそらく彼らの前から消えたのは私たちの方よ」
「どういうこと?」
ヒラクはラクダを近づけて、ヴェルダの御使いの横に並んだ。
「この雨が意味するものを私はわかっていなかった」
ヴェルダの御使いはきつくくちびるをかみ締める。
「プレーナは、この地に宿る記憶をすべて吐き出そうとしている。砂漠全体に渡る範囲で過去の記録が甦ろうとしている」
「どういう意味?」
「プレーナがプレーナ以前になるということは、一夜で大地を奪ったプレーナが存在する以前に戻るということでもある。つまりここにプレーナ以前の大地が再び現れるということよ」
「じゃあ今おれたちが見ているのは過去? プレーナの過去をさかのぼっているということ?」
「いえ……」
ヴェルダの御使いは難しい顔をする。
「私たちが過去と思っているものはプレーナには過去ではない。プレーナという媒体を通してすべては同時に存在し得る。私たちは今、過去と現在が混在する場に紛れ込んでしまっている」
「どういう意味?」
「とにかくセーカに急ぐのよ。方向はこちらで間違いないはず。私たちは長く雨にあたりすぎた。プレーナにふれすぎたのよ」
「意味がわからないってば」
「私たちもまたプレーナと同じ媒体であることを忘れたの?」
ヴェルダの御使いは暗い目でヒラクを見た。
ヒラクはあっと息を呑む。
そしてヴェルダの御使いは怖れを含んだ声で言う。
「今見えているこの光景に私たちが存在していること自体、すでにプレーナと同化しようとしていることを意味しているのかもしれない」
「そんな!」
「いいから急いで!」
ヴェルダの御使いはそれ以上何も言わず、ヒラクも黙ってセーカにたどり着くことだけを考えた。
しかしその時もうすでに二人は緑の雨に溶けだした過去の記録の中にいた。
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