第2話 聖堂のプレーナ

 入り口から中に入ると、ヒラクは密度の濃い空気に圧迫され息をつまらせた。

 横長で凸型の透明な水晶のかたまりが、目の前の視界をふさいでいる。

 ヒラクはそれを正面に見ようと回り込んだ。


 正面から見ると、凸型の水晶は二段の祭壇になっていて、上の段の真ん中の突き出た頂上部には、小さなアーチ型の穴が穿たれていた。

 下の段の真ん中、ちょうどアーチ型の穴の下には、大きな銀の器が置かれていて、そこには淡く発光する緑の水が湛えられていた。

 器の両側には銀の燭台が置かれている。ろうそくのない燭台の上に緑の光がぼんやりと浮かんで見える。ヒラクは目をこすった。

 他にも不思議なのは、その祭壇の上を天蓋のように飾る草花だ。まるで空中に浮遊しているかのように、白い小さな花をたくさんつけた緑の草が高いところからしだれている。


 祭壇と天蓋のある前方から、曇りなく透明な水晶の床が後方に伸びていた。

 遠く離れた場所に祭壇と向き合う大きなアーチ型の入り口がある。

 入り口は観音開きの銀の扉で閉ざされていた。

 四方を取り囲む透明な水晶の壁を通して見えるものは何もない。


 ヒラクは不思議に思った。広い空間には誰もいない。

 ここに入る前に聞こえた異様なうめき声は一体どこから聞こえたのか? 

 辺りはしんと静まり返っていた。


 ヒラクは上を見上げた。

 天井はあの緑の水膜だ。空の青さも通さないほど分厚いものに感じられた。水を通すかすかな光が影を落とし、流水模様が床に揺らぐ。

 漂う煙で室内全体がヴェールを透かして見るようにうすぼんやりとしていた。

 煙の源は水をたたえた器の前に置かれた大きな香炉にある。木の香りのような、甘い蜜のような独特な香りはここから発生していた。

 鼻腔にかすかに柑橘系の刺激を残すその香りをヒラクはよく知っていた。

 アノイの村で、ヒラクの母は毎晩銀の器の水に祈りを捧げながら、薄黄色の粉を練って固めたようなものを燃やしていた。それは燃やすと独特な甘い香りの煙を発生させた。

 母が去った後も、母と過ごした小部屋にそのにおいはしみついていた。次第に薄れていく残り香に、ヒラクは母の記憶が過去に遠ざかっていくのを感じた。

 だが忘れるということは、記憶を捨て去ることではない。記憶は心の奥底に深く沈み込んでいる。ふとしたことでかきまわされて、浮かぶ記憶の断片が、心を鋭く傷つける。鼻先で甘く、肺でむせかえるような独特の香りは、ヒラクが母といた頃の記憶を強烈に呼び覚ます。


 母はあの頃と同じように銀の水の器の前にひざを折って座っていた。

 そしてあの言葉を口にする。


「偉大なるプレーナよ

 万物を満たす大いなるものよ

 命の源、還元の主、永久に一なるものよ

 すべてを捧げん

 偉大なるプレーナ

 我が命は共にあり

 大いなる一つのものとなり……」


 ヒラクが幼い頃に何度も聞いた呪文のような言葉だ。そしてヒラクはあの頃と同じ光景を目にした。


 母は太ももをこぶしで打ちながらリズムをとる。呪文のような言葉はリズムにのって朗々と語られる。太ももを打つこぶしは力強さを増し、リズムは加速する。長い緑の髪を振り乱し、前後に体を揺さぶって、母は息も絶え絶えに、ひたすら同じ言葉を繰り返す。壁に、床に、声は反響して広がり、空間全体の空気が振動する。


 ヒラクの母の言葉の隙間にうめき声が聞こえる。


……偉大なるプレーナ……


……罪をお許しください……


 振り返ったヒラクは、透明な水晶の床のあちこちに、しみのように浮かぶ影を見た。


 辺りに何かの気配が漂う。

 ヒラクはこの感覚を知っていた。

 アノイの村で川の神を見たとき、今のように水面に気配が漂った。

 ヒラクはそのときと同じように、視界全体をぼんやりと見るようにした。


 すると床のしみの影の一つ一つが、次第に人の形を作っていった。

 床のあちこちに人々が現れては消え、消えては現れる。現れるたびにそれぞれがまるでちがう人物になる。

 だが人物は変っても、そのほとんどが若い娘の姿であり、みな同じ動作を繰り返していた。ひざをつき、両手で椀を作り、そのまま頭上に掲げるようにしてから口を覆い、胸に手を当てる。ヒラクはこの動きをすでに知っていた。


 ヒラクは明滅するように入れ替わる娘たちのうちの一人に目を止めた。

 見たことがある……。つい最近のことだ。

 思い出そうとするよりも先に脳裏に焼きつく映像がヒラクの中で甦る。


 緑の光に照らされた長い地下通路が見えた。地下では緑の紐を腕や足に巻きつけた人々が暮らしていた。地下の一室では多くの人々が今ここで若い娘たちがしているような祈りを捧げていた。

 人々は緑の光に照らされると歓喜にむせび、そして両手で椀を作る動作をして、胸に手を当てるとそのまま動かなくなった。


 他のへやには病人もいた。

 ヒラクはその病人を見たとき、癒してあげたいと思った。

 だが、緑の光に包まれた病人は息をひきとった。

 その病人のことをヒラクはよく覚えている。栗色の髪をしたまだ若い娘だ。青白い顔をして、瞬きすらせず、うつろな目で宙を眺めていた。緑の光に照らされると、くちびるを震わせながら、かすかに笑みを漂わせ、一筋の涙を落として瞳を閉じた。

 その娘が、今ここで、祭壇に向かって一心に祈りを捧げている。


 ヒラクはなぜここにいるのか尋ねようと娘に一歩近づいた。

 だが娘は胸に手をあててひれ伏すと、次に体を起こしたときには、まったくちがう娘の姿に変ってしまった。そしてまた手で椀を作る同じ動作を繰り返す。


 ヒラクは少し離れたところで祈りを捧げる年のいった女の顔も気になった。誰か知っている人物と似ている気がする。

 ヒラクはその女をじっと見た。

 その女は徐々に姿を変えていった。

 よく見ると、ちがう人物に変っていくのではなく、若返っているのがわかった。

 祈りを捧げる女たちの中には若い娘ではない者もいる。だが、その女たちが祈りを捧げると姿が若返っていく。

 今、ヒラクが見ている見覚えのある女もそのうちの一人だ。

 女が顔を覆い隠すように椀を作った手を胸に下ろしていくと、すでにその姿は若い娘に変化していた。そしてヒラクはその変化した娘の顔を見て驚いた。


(アクリラ……)


 その娘は、地下の町セーカで出会った娘アクリラに似ていた。

 だが、それはアクリラではないこともよくわかる。似ているというだけで、本人とはちがうとはっきりと見分けられる。


 ヒラクは、自分がアクリラという娘と出会い、地下の町に入り込んだことを思い出した。アクリラは病の母親を助けてほしいとヒラクに頼んだ。


 ヒラクは直感した。

 このアクリラに似た娘は、病死したというアクリラの母カトリナだ。


 ヒラクはカトリナを助けることはできなかった。そもそも助ける力などないとヒラクは思っていた。ヒラクは誰か別な人物に間違われていたのだ。


(誰だっけ……? アクリラはおれを誰とまちがえていたんだ?)


 ヒラクはもつれた糸を解いていくように記憶をたどった。


 すべてはアクリラの誤解から始まった。

 ヒラクは何の考えもなしに地下の町へ入り込んだ。

 一人ではなかった。誰かが一緒だった。そしてその誰かを助けようとした。

 それは誰なのか……。


 あいまいな記憶がはっきりとし始めた。

 だが、祭壇の前に座るヒラクの母が一層声を張り上げると、つかみかけた記憶は一部分だけ残してはじけ飛んだ。


 ヒラクが振り返って見た母は、何かにとりつかれたように、前後左右に上体を激しく揺らしながら髪を振り乱していた。

 高まる母の声に、まばらにちらばる娘たちは唱和した。

 娘たちは緑の光を体から放った。

 そしてその光に溶け込むようにして一斉に姿を消した。


 娘たちの祈りの声だけが残り、前方の祭壇に向かって、高波のように押し寄せてくる。それを背で受けるヒラクの母の声は厚みを増し、空間全体が人の声とは思えない音響で満たされた。


 祈りの声が室内に重く充満する。

 ヒラクは圧迫する密度の濃い空気に息をつまらせた。


 やがて祈りの声が止んだ。


 母は透明な祭壇に向かい、深々と頭を下げてひれ伏している。

 ヒラクは母のそばに近寄る。早くここから出たいと思っていた。


「ヒラク、ここに座りなさい」


 ヒラクの母は顔を上げた。乱れた髪が汗で顔にはりついていた。頬は紅潮し、琥珀色の瞳は爛々と輝いている。


 ヒラクはひざを折り、おとなしく母の隣に座った。

 五歳の頃まであたりまえのようにそうしてきたのだ。かき乱されて浮上しかけた記憶は再び澱みに沈み込む。


「ヒラク、偉大なるプレーナにお礼を言いなさい。私たちは偉大なる御方のお導きにより再びこうして会うことができたのだから」


「どこにプレーナがいるの?」


 ヒラクは母の視線の先を目で追った。そこには水晶の祭壇と銀の器があるだけだ。


「もしかして、あの水のこと?」


 ヒラクは器の中の水を指して言った。


「あれはプレーナの一部よ。その上にあるものを見なさい」


 器が置かれている場所の一段上の真ん中の四角く突き出た部分にはアーチ型の穴がうがたれている。


「あの入り口は私たちがここに入ってきた入り口と同じものなの。あの奥にプレーナがお住まいになる。私たちの聖室もあの奥にあるの」


 ヒラクには母の言葉の意味が理解できなかった。

 自分が入ってきたアーチ型の入り口は祭壇の裏にある。それがなぜ目の前の祭壇の突き出た頂上部の穴と同じだというのか。つまりその穴も象徴ということか。

 だが、そんなことを考えるのも意味はないように思えた。母が言うことを否定する気になれなかった。ただ母が望むように振舞うにはどうしたらいいか、ヒラクはそのことばかり考えていた。


「お礼ってどうしたらいいの?」


 ヒラクは母の顔色をうかがいながら尋ねた。


「両手を胸の前で合わせて祈るのよ。私の言葉に続けて同じことを言って。できるわね?」


 ヒラクはうなずいた。

 母は祭壇に向かって手を合わせた。


「偉大なるプレーナよ、あなた様のお導きにより、私たちは再会することができました」


 ヒラクは母に続いて言葉を繰り返した。


「偉大なるプレーナよ、あなた様のお導きにより、私たちは再会することができました」


(ちがう……)


 ヒラクはのどの奥に違和感を覚えた。


「還元の主プレーナよ。あなたと一つとなることを望み、私はここにいるのです」


「還元の主プレーナよ。あなたと一つとなることを望み、私はここにいるのです」


(口から出るのは誰の言葉なんだ?)


 ヒラクは息苦しくなった。


「大いなるあなたの御意志に感謝します」


「大いなるあなたの……」


 そこまで言いかけて、ヒラクは言葉を吐き出すことができなくなった。

 まるで見えない力で何かに首をしめつけられているかのようだ。

 それはヒラク自身の抵抗だった。


「どうしたの?ヒラク」


 母は不思議そうにヒラクを見た。


(ちがう……。自分はここに連れてこられたんじゃない。来たいと思ったから来たんだ)


 ヒラクは強く優しいまなざしを思い出した。記憶の中の父イルシカがヒラクに語りかけてくる。


『ヒラク、自分の人生を、自分の意志でしっかり生きろ』


 ヒラクは父の言葉に自然とうなずいていた。


 ヒラクの母は不愉快そうに眉をひそめた。ヒラクの目の奥にある強い意志の光が、イルシカの存在を思い出させる。


「ヒラク……」


 ヒラクの母は手をのばし、その目を避けるかのように我が子の顔を胸に埋めた。


「あなたは小さな子どもなの。何もわかっていないのよ」


 その声とぬくもりがヒラクの抵抗を弱める。


「だいじょうぶよ。あなたは私の一部だったのだもの。大いなるプレーナの一部でもある。穢れはじきに浄化されるわ」


 母の言葉を聞きながら、ヒラクはゆっくり目を閉じた。


 もう、何も考えられなかった……。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る