第3話 中庭の少女

 静かな日々が過ぎていく。


 死んだような樹木に囲まれた部屋で眠り、目を覚ますと母に連れられて聖堂の祭壇に向かって祈るだけの毎日を、ヒラクはただ繰り返していた。


 ヒラクは不思議とここに来てから食欲を感じなかった。

 それでもプレーナの一部だという淡い緑の水を毎日母に飲まされていたし、時には鮮やかな緑の水草を食べさせられることもあった。

 母に食べされられるその水草は、どこかなつかしい味がした。小さい頃に食べたことがあるのかもしれないとヒラクは思った。


 水と水草だけしか体に取り入れていないのに、ヒラクは頻繁に排泄を繰り返した。 

 腹が痛くなると、ヒラクは壁のように取り囲む木々の中に駆け込み、淡い緑の水に浸された根元の隙間にしゃがんで用を足した。黒いタールのような便が出た。

 初めてそれを見たとき、ヒラクは驚いた。

 あわててその場所から離れ、部屋の床に転がるようにして戻ったヒラクは、衣服を濡らしたままその場にうずくまった。

 顔を上げると母がいた。

 ヒラクの母はヒラクを立たせ、濡れた衣服を脱がし、新しい白い衣服に着替えさせた。

 生き生きとした様子でどこかうれしそうに世話を焼く母の前で、ヒラクは罰が悪そうにうつむいた。そんなヒラクを安心させるように母は優しく微笑んだ。


「だいじょうぶよ、ヒラク。あなたの体は今プレーナにより清められているところなの。体から出てきたのは、不要な毒よ。何も心配することはないわ。ごらんなさい」


 ヒラクは顔を上げて母が指差す方を見た。ヒラクが排泄した場所の水は、他の場所よりも明るく緑の水が発光して見えた。


「あなたが体から出した毒もすでにプレーナにより浄化されているわ。ほら、見えるでしょう?」


 ヒラクは黙ってうなずいた。


「獣の肉は不浄な毒よ。これまであなたは毒を食べさせられてきたの。それをすべて体から出し切らなければプレーナと一つになることはできないわ。今はそのための準備期間よ。お水をたくさん飲んで毒をたくさん出し切りなさい」


 ヒラクの母は水差しの水を器に注ぎ、ヒラクに差し出した。ヒラクは黙ってそれを飲み干した。


「いい子ね」


 満足そうな母の笑顔にヒラクはほっとした。

 だが次第にヒラクは自分に起こっている変化に不安を抱くようになった。

 色素が抜けたように手足が白くなっていることに気づいたのだ。

 ここに来たばかりのときにはぱさついていた髪も今は艶が出てしっとりと潤っている。髪の色は以前よりも緑が濃くなっている気がした。母に肩の辺りで髪を切りそろえられたヒラクは、これまでとはまるで別人のようになっていた。

 何より変わったのはその目だ。赤茶色の瞳は透き通るような琥珀色に変わり、どこかうつろで焦点が定まらず、強い意志の光はもはや見ることができない。


 ヒラクは自分が誰か別の人物の中に入りこんでいる気がしていた。

 姿形が女の子に変わっていくことに、ヒラクは戸惑いを隠せない。女として生きるということがどういうことなのかヒラクにはよくわからなかった。

 これまでの自分が消えてしまうということなのか……。

 考えようとすると眠気が思考を停止させる。


 それでもヒラクはぼんやりとたまに思い出すことがあった。

 それは地下の町の記憶だ。

 プレーナと一つになるために、食事を一切取らず、水だけで過ごしていると言っていたのは誰だったか……。自分が見た干からびた老人の死体……。

 その記憶に触れると、ヒラクはいてもたってもいられずに部屋に置かれた水差しの水を飲み干した。

 水を飲まなければ自分も干からびてしまうと思うのだ。


 器の中の淡い緑の水をじっと見ていると、もう一つ甦る記憶がある。

 緑の光が立ち上り、女の形になったこと……。

 そしてそれを思い出すと、それとは別に、誰か緑の光の中に溶け込んだ女がいたということを思い出すのだ。それは、聖堂の床に現れた祈りを捧げる娘たちが緑の光を放ちながら消えた光景を見たときにも感じたことだった。

 それは一体誰だったのか……。


 一瞬、赤茶けた長い髪に薄茶色の瞳をした娘の姿が見えた気がした。

 その顔はヒラクの母によく似ている……。


 自分は混乱しているだけなのか? 何が正しい記憶なのか……。

 ヒラクは自分が自分じゃないものに呑み込まれていく感覚を知っている。

 それはどこで感じたものなのか? 

 今、自分はすでに自分じゃなくなっているのか……。


 自分を追いつめる何かから逃れようとするかのように、ヒラクは水晶と樹木の部屋を飛び出した。

            

 

 ヒラクは部屋から伸びる通路をまっすぐに走った。


 やがて樹木が途切れて、白濁した氷のような水晶の床と天井が先に続く廊下に出る。

 右側の壁にはアーチ型の窓穴が連なり、その向こうに中庭が見える。

 ヒラクは、初めて見たときから、この場所になぜか惹かれていた。

 だが母はその場所には見向きもしない。ただまっすぐ廊下を歩き、突き当たると左にある階段を上って聖堂に向かう。

 いつもなら一人でも聖堂へと向かうところだが、どこか逃げ場所を求めるように、ヒラクの足は自然と中庭へと向かっていた。


 廊下を突き当たり、いつもなら左の階段へ向かうところを右に曲がり、ヒラクはさらに廊下を進んだ。

 これまで歩いてきたところと同じように右側の壁にアーチ型の窓穴が連なる。突き当りをさらに右に曲がってヒラクはその先に伸びる廊下を進んだ。

 右側にある窓穴から中庭を挟んで反対側の壁が見えた。

 ヒラクはいつも自分が歩いている廊下を窓越しに眺めた。

 そしてまた突き当たって右に曲がる。ここが中庭を囲む四方の壁の最後となる。

 だが、どこにも中庭への入り口がない。

 もうすぐまた壁に突き当たる。そして右に曲がれば、ヒラクが最初に歩いた廊下につながり、中庭を一周したことになる。


 ヒラクは廊下から中庭へは入れないものと思った。

 だが一周して戻ったはずの廊下には、アーチ型の窓が床まで伸びたような縦長の出入り口があった。


 ヒラクは不思議に思った。

 その廊下は、ヒラクがいつも聖堂に向かうときに通るところだ。

 今までそこに中庭への出入り口など存在していなかった。

 自分は一周したと思ったけれど、かんちがいだったのだろうか……。

 けれども出入り口のある廊下の窓の向こうに見える中庭の景色は、いつも聖堂に向かう途中に見てきたものと同じだ。

 ヒラクは混乱したが、今はとにかく中庭に入ってみようと思った。


 中庭に入ると、氷の板のような水晶の遊歩道が足元から伸びていた。

 遊歩道は中心にある泉から放射状に伸びている。

 遊歩道と遊歩道の間は草木が茂っている。そのどれもが淡い緑の水の中に浸かっていて、遊歩道はまるで水の上に浮かんでいるように見えた。そのうちの一つをヒラクは歩いた。


 空には水の膜が張っていて、光がゆらゆらと踊っている。水の中で陽光を浴びるようだった。

 泉の周りには両手の指先を合わせて球体を作るぐらいの大きさの透明な丸い水晶が埋め込まれていて、水の中には鮮やかな緑の水草が見えた。

 水草は小さな白い花をたくさんつけて、水の中をゆらゆらと漂っていた。

 鈍い光が水面で反射する。鮮やかな緑に白い花が映える。

 近くで見ると、水は透明度が高く、どこまでも清く澄んでいる。

 周囲を囲む水晶は水膜の空の光を受け止め、濡れたように輝き、淡い緑の光を放っている。


 ヒラクはその光景に見とれながら、吸い寄せられるように縁の泉に近寄り、ひざをついて水の中を覗き込んだ。

 そして驚いた。

 水面に映る姿は、ヒラクが自分で認識している自分とはちがっていた。

 白くほっそりとした顔、笑みの消えた唇、どこかさびしげなうつろな瞳……。

 ヒラクは、まるで見知らぬ少女を水の中に見るような気がした。


 水中の水草の鮮やかな緑が水面に映る自分の髪と重なる。

 ヒラクは映し出された自分を別人のように感じながら、水草をじっと眺めた。

 すると、その水草の隙間に瞳を閉じた少女の白い顔が見えた気がした。

 ヒラクは驚いて目をこすった。


 ゆっくりと、水草の隙間から少女が仰向けの状態で浮かび上がってくる。

 水面下から顔が現れると、少女はゆっくりと瞳を開いた。

 透明な薄い琥珀色の瞳に水膜の光が落ちた。

 少女の白い衣服のすそが水草とともに水の中をたゆたう。


「おまえは一体……」


 ヒラクは驚いて言った。


 少女は泉の縁にいるヒラクに視線を向けた。

 そしてその場に立ち上がるようにして体を垂直に起こし、再び水の中に沈んだ。

 泉の底は少女の身長より深いらしい。だが聖堂に入る前に体を清めた堀池の水と同じく、底には段差がつけられているようだ。

 少女は階段を上って少しずつ水の中から出てきてヒラクの前に姿を見せた。

 鮮やかな長い緑の髪に白い小さな花が絡みついている。濡れた衣服は体にぴったりとはりついて、ひざ下の衣服のすそからはしずくが滴り落ちた。


 少女はガラス玉のような琥珀色の瞳でヒラクをじっと見た。

 だがその目は、ヒラクを見ているようで見ていない。ただ目に入る景色を映しているだけで、何も見ていないようでもある。


「……あなた、誰?」


 少女はささやくように言った。


「……ヒラク」


「……ヒラク?」


 少女はヒラクに近づき、目の前に立った。


 少女はヒラクと同じぐらいの背丈で、目線の高さも同じだった。骨格、体つき、そして鮮やかな緑の髪の色も同じだ。


 少女の瞳にヒラクが映る。

 ヒラクの瞳にも少女がいる。

 合わせ鏡が連なるように、瞳の奥にお互いの存在が重なり合うような気がして、ヒラクは不思議な感覚に包まれた。


「名前は?」


 ヒラクは少女に尋ねた。

 少女は静かにつぶやく。


「……フミカ」


「フミカ……」


 その日から、その名はヒラクにとって特別なものとなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る