第6話 扉の向こう
ヒラクは早くに目を覚ました。
水膜の空が明るくなりかけている。
夜の空は暗いが、空を透かす水の膜は常に淡い緑の光を放っている。
そのため夜といってもいつもぼんやりと明るい。
空が暗くなる分、樹木を浸す水面が一層明るく発光しているように見える。
透明な水晶の床も暗がりに浮かび上がるようだった。
ヒラクは聖堂に向かった。
廊下を歩きながら右に連なるアーチ窓をのぞく。
そこにフミカの姿を探した。
だが、どこにもその姿はなかった。
(あとで来てみよう……)
廊下を突き当たったヒラクは、そのまま左手の階段を上っていった。
母には一人でも祈りにきていると言ったが、本当は一人で聖堂に来るのは今日が初めてである。母を喜ばせることが先で、嘘をついたかどうかなど、ヒラクはどうでもいいことと思っていた。
だが相手が父だとそうはいかない。嘘をつかれて喜ぶ父ではなかった。
ヒラクは父に会いたかった。父といても、母のいない寂しさは確かにあった。
それでも今感じているような寂しさはなかった。
ヒラクは母に対して不信感を抱いていた。いらないものを手放すように簡単に捨てられてしまう。そんな不安がヒラクの中にある。
壊れたものや使えない道具を見ると、ヒラクはどこか悲しい気持ちになる。それに対してもういらないと思う自分の気持ちは、母が自分に感じた思いと同じなのではないかと思えた。
母にとって不必要となった自分は、壊れて使えない物と何ら変わらない。無価値で、劣っていて、役に立たないつまらない物だ。そんな潜在的な劣等感がヒラクの中にある。
階段を上りきったところで、緑の水を湛えた四角い堀池にざばざばと浸かり、ヒラクは濡れた体のまま聖堂に入っていく。体も衣服もすぐ乾いた。
聖堂はしんと静まり返り、誰の姿もなかった。
天井の水膜から白く明るい光が差し込む。
ヒラクは祭壇に背を向けて、水晶の床の先にあるアーチ型の銀の扉に向かって歩いた。
この閉ざされた扉の向こうが母の言う「外」なのだろうか。
ヒラクは緊張した面持ちで、扉を両手でゆっくり押した。
気がつくと、ヒラクは扉の外にいた。
背後のアーチ型の扉は木でできていて、かんぬきが差してある。
四角い石を整然と積み上げた壁がそびえたち、扉の左右に伸びている。
ヒラクは辺りを見渡した。
柔らかな地面に瑞々しい柑橘系の果実を実らせた樹木が生えている。
空一面に広がる水の膜はよく見なければわからないくらいで、青空に薄い雲がかかっているほどにしか気にならない。
明るい日差しが降り注ぎ、小鳥のさえずりが聞こえる。
ヒラクはどこかなつかしさを覚えながら木立の中を歩きだした。
若い娘たちの笑い声が聞こえる。
やがて木々が途切れると芝生が広がり、木に囲まれた大きな噴水があった。
淡い緑の水が噴出している。
十数人の娘たちがそこで水遊びでもするように、足を浸したり、水を浴びたりしながら、楽しそうに笑い声をあげている。
ヒラクは娘たちに近づいた。
娘たちはヒラクに気がつくと、迎え入れようとするように親しみをこめた笑みを向けた。
「あなた、新しくここに来た人?」
茶色の瞳と黄みがかった肌と赤茶色の髪をもつ娘がヒラクに声をかけた。
「新しく来た人の髪がこんなに鮮やかな緑色のわけないじゃない」
すぐそばにいた娘が言った。
その娘の髪は赤茶けていたが、部分的に緑の髪が生えていた。
「まさかヴェルダの
近寄ってきた別の娘が言った。
娘の髪は毛先が茶色で根元の方は黄色と緑が混ざったような色をしていた。
「そんなわけないわ」
噴水に足を浸していた娘がヒラクのそばに近づいてきた。
「ヴェルダの御使いはこの聖地には存在しない」
「そうね、存在しない」
「ここにはいない」
娘たちは口々に言う。
「ヴェルダの御使いはセーカとプレーナの仲介人。生命の水を運ぶ者。私たちの姿を借りて」
噴水に足を浸していた娘はヒラクの目をじっと見た。
その娘の瞳は赤く、そして髪は緑色だった。
「おまえたちは一体……」
ヒラクは娘たちを一人一人見た。
そこにいる娘たちは全員セーカの娘と思われるが髪の色が緑色か、もしくはそのようになりかけていた。
「私たちはプレーナの娘。聖地プレーナに到達した者よ」
赤い瞳で緑の髪の娘が言った。
「プレーナの娘? こんなに?」
ヒラクは驚いた。
ヒラクの母は、プレーナの娘は一人だと言った。選ばれた者は一人であり、ヒラクの母とヒラクこそがそうなのだと言った。
ヒラクは混乱していた。
そしてその混乱の中でも「ヴェルダの御使い」という言葉にひっかかりを感じていた。それに「プレーナの娘が聖地プレーナに到達する」といった言葉にも、記憶を揺さぶる何かがある。
噴水から緑の水が勢いよく噴き出した。
「祈りの時間だわ」
一人の娘が言うと、他の娘たちは一斉に噴水の周りをぐるりと取り囲んだ。
木立の中から、さらに別の娘たちも集まってきた。
噴水を取り囲む娘たちとさらに外側を囲む娘たちが輪になり、立ちひざで両手をだらりと下げる。
噴水が高く噴出した。
きらきらとしたしぶきが娘たちの頭上に光のように降り注ぐ。
娘たちは両手で椀を作り、それを頭上に掲げた。
椀を作った手の中に淡く発光する緑の水がたまっていく。
娘たちは手の椀の水を飲み干した。そして両手を胸にあてて目を閉じた。
「偉大なるプレーナよ。
我と共にあれ。
すべての罪を呑み込み、
我が身があなたと一つとなることをお許しください」
それは、ヒラクが聖堂で聞いた祈りの声と同じものだった。
娘たちの声が空気を振動させる。
ヒラクが娘たちの顔を一人一人見ると、何人か見覚えがあった。
聖堂の床に浮かび上がった娘たちと同じだ。
セーカの地下で祈りを捧げていた娘たち、病に苦しみ緑の光に照らされると安堵して死んでいった栗色の髪の娘もいる。
聖堂で見たときとはちがい、そこにある姿がちがう者の姿に変化することはない。
ただ、あの時と同じように、娘たちの体から緑の光が天をつく柱のように伸びた。
娘たちは緑の光と同化していく。
光の柱は水幕の空に届くところで屈折し、噴水の中心をめがけて、それまで吹き上がっていた水とともに水底に沈みこんだ。
そうかと思うと、水面全体が吹き上がるように勢いよく水が噴出した。
それはもはや水ではなかった。
水とも光ともいえない形状で、巨大な人間の姿を作っていく。
噴水の中に、水のような光のような、髪の長い巨大な女が現れた。
「……プレーナ?」
ヒラクは噴水の前に立ち、緑色に発光する巨大な女を見上げて呆然とつぶやいた。
「おまえはプレーナなのか?」
ヒラクは巨大な女の形をしたものを射抜くように見た。それが何かを確かめようとするその目には、失いかけていた強い意志の光が宿っていた。
巨大な女はヒラクを見下ろし、口を大きく開けた。
「私はプレーナ」
「偉大なる者」
「一つとならん」
「お許しください」
「この罪もろとも」
「プレーナと共に」
巨大な口から吐き出されたのは娘たちの声だ。
「おまえの中にさっきの女たちが? いや、ちがう……、さっきの女たちがおまえを生み出した?」
ヒラクの言葉で巨大な女の形状が崩れていく。
「私はプレーナ……」
「私もプレーナ……」
「私は一なる者……」
「だからプレーナ……」
「プレーナこそ私……」
「私が……」
巨大な女が放つ淡い緑の光が明滅しはじめた。
ヒラクは形を崩していく女をみつめながら言った。
「おまえはプレーナじゃない」
その瞬間、巨大な女ははじけるように一瞬で姿を消し、しぶきが飛び散った。
細かな水の粒子が空中に薄い光の膜を作っている。
ヒラクはまぶしそうに目を細めた。
「おれは、プレーナを探しにきたんだ……」
自分の中にある衝動に突き動かされてここまでやってきたことをヒラクは思い出した。
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