第7話 取り戻した記憶
「神さまを探す……」
つぶやいた言葉でヒラクの鼓動が高鳴った。
「母さんに会いたかったからじゃない。プレーナと一つになりたかったからじゃない。おれはただ、神にたどりつきたかった。それがプレーナであるのかどうか確かめたかった。だからあの日、おれは山を越えたんだ!」
ヒラクは記憶を取り戻した。
父と別れてアノイの地から旅立ったこと。狼に導かれて地下の町セーカにたどり着いたこと。そして……
「ユピ……」
ヒラクの目に涙が溢れた。
どうして忘れていられたのか不思議だった。ヒラクにとって誰よりもかけがえのない存在、幼い頃からずっと一緒だった少年……。
ヒラクは手の甲で涙を拭い、鼻をすすってため息をついた。
「ユピと一緒にここまで来るはずだったのに……。せっかくヴェルダの御使いに会ったのに……」
ヒラクは分配交換の儀式で会ったヴェルダの御使いのことを思い出していた。
「あれは確かにヴェルダの御使いだった。黒装束の民……おれと同じ緑の髪をした……」
そしてヒラクはハッとした。
「あの声、あれは……」
あの時、ヴェルダの御使いは確かにこう言った。
『おまえは一体……』
ヒラクの髪に触れて言ったヴェルダの御使いのその言葉、その声にヒラクは聞き覚えがあった。
「母さん……?」
ヒラクはすぐにその考えを打ち消した。
そんなわけがない。それならここで出会った母は一体誰なのか……。
「さっきの女たちはここにヴェルダの御使いは存在しないと言っていた。聖地にはいないと……」
そもそもここが聖地であるなら、ヒラクが母と一緒に過ごした水晶の建物は何なのか。母はここを外だと言った。ヒラクにはわけがわからない。
噴水の前で立ち尽くしたまま、あれこれと考えを巡らせるヒラクのそばに、木立から姿を現した数人の女たちが近づいてきた。
今度は若い娘たちではない。顔にしわを刻む、年のいった女たちだ。
女たちはヒラクに会釈すると、噴水の前でひざをつき、両手で椀を作って水をすくい、それを口に運んで飲み干した。
「偉大なるプレーナよ……」
女たちは水を飲むだけでなく、お互いの頭や体にかけあった。
すると女たちの顔からしわが消えていき、姿が娘のように若返った。
娘の姿になると、女たちは最初にいた娘たちと同様の祈りを捧げ始めた。
その女たちの中に、ヒラクがセーカで知り合った娘アクリラに似た女がいた。
「アクリラ」
ヒラクが呼びかけると、若い娘の姿になったアクリラに似た女は一瞬動きを止めかけた。だが女はかまわず祈りの動作を続ける。
「……いや、アクリラじゃない。でもその名前を知っているはず。それとも忘れてしまったの?」
ヒラクの言葉に動揺し、アクリラに似た女の動作が止まる。
他の女たちは娘になった姿で祈りの動作を続けていた。
アクリラに似た女もそれに合わせようと、あわてて両手で椀を作り、頭上に掲げた。
噴水が勢いよく噴き出した。
先ほどとまったく同じようにその場にいる女たちは自ら放つ緑の光に取り込まれていく。
女たちの体が溶け込む光の柱は宙で屈折して水底の一点に集まった。
水底から湧き上がるようにして光と水の形状の女が姿を現す。
「……おまえは、さっき姿を消したはずじゃないのか?」
先ほど消滅したはずの巨大な緑の光と水の女が再び姿を現した。
「私はプレーナ……」
「プレーナの娘……」
「プレーナと一つになる……」
巨大な女の口から、声色のちがう途切れ途切れの言葉が重なり合って出てくる。
アクリラに似た女は、あわてて祈りの動作をして、光に取り込まれた女たちに続こうとする。だが椀を作った女の手はかすかに震えていた。
「これはプレーナじゃない」
ヒラクの言葉で再び女の祈りが止まる。
「あんたもプレーナじゃない」
女は娘の姿から、もとの姿に戻った。
「アクリラを知っているよね?」
女は力なくその場にうなだれた。
すでに噴水の巨大な女の姿はなかった。
プレーナではないとヒラクが言った瞬間、それは跡形もなく消えていた。
「なんてひどいことを……」
女はその場にはいつくばったまま嗚咽した。
「ひどい? おれはただ、あんたを救いたくて……」
「救う? 私の前から祈るべきものを消失させて何を言うの? あなたは一体誰? ヴェルダの御使いはここには現れないわ」
女は怒りと恨みのこもる充血した赤い目でヒラクを見た。
ヒラクは自分がしたことがわからなかった。
ヒラクの中に以前感じた後悔がよみがえる。
「おれはヴェルダの御使いじゃない。だから、あんたのことが救えなかった」
「どういうこと?」
「アクリラに頼まれたんだ。病気の母親を救ってほしいって。でも、おれには何もできなかった」
なぜここで出会うのかはわからなかったが、目の前にいるアクリラに似た女は、病死したアクリラの母カトリナにちがいないとヒラクは確信していた。
「……わかる? アクリラのこと」
「……娘の名前よ。忘れるわけないじゃない」
カトリナはふと表情を和らげて小さく笑った。
「なんでこんなところにいるの?」
ヒラクはカトリナに尋ねた。
「ここが聖地だからよ」
「聖地?」
「そう、聖地プレーナ。ここで偉大なるプレーナと一つになることができる。けれどプレーナを目指すことができるのは若い娘たちだけとされている。娘たちは祈りそのものになり、プレーナに還元されて永遠の命を得るの。
でもセーカから娘たちが聖地をめざしていたのはもう昔のこと。敬虔なプレーナ教徒なら誰でもプレーナと一つになることができる。老いて死んだ女たちもプレーナの生命の息吹を浴びて若返り、プレーナの娘として祈りを捧げることができる。そう伝わってきたわ。ここに来てそれが本当だとわかった。ここはまちがいなく伝えられてきたとおりの聖地よ」
カトリナは頬を紅潮させた。
「それで? あんたは幸せなの? ここで毎日祈りを捧げて、プレーナと一つになって、それで一体何になるっていうの?」
ヒラクの中には疑問がうずまく。カトリナの心理はまるで理解できない。
「長年思い描いてきたとおりの場所に行き着いたのですもの。これ以上の幸せがどこにあるというの? プレーナと一つになることこそ最上の喜び。それ以外に何を望むというの?」
カトリナもまた、ヒラクの質問がまったく理解できない様子だった。
そこにまた、数人の女たちが現れた。
木立の隙間から姿を見せたのは、カトリナと同じぐらい年のいった女たちだ。
女たちは噴水の前でひざを落とし、両手で椀を作って祈りはじめた。
噴水の中から再び光と水の巨大な緑の女が現れた。
「ああ、偉大なるプレーナよ。あなたはやはり永遠なるお方……」
カトリナは吸い寄せられるようにふらふらと噴水に近づいていった。
そしてまた同じように娘の姿になって祈り始めた。
目の前に現れた水と光の形状の巨大な女は、祈る者がいればすぐに形を取り戻す。
ヒラクはわからなかった。この巨大な女が存在するから祈る者たちがいるのか、それとも、祈る者たちがいるからこの女が存在するのか……。
セーカのプレーナ教徒たちは、プレーナの怒りを買って地上の生活を奪われた。
それ以来、地下に潜って罪の意識を深めながら、プレーナにひたすら祈りを捧げて生きてきた。
それは救いを求める祈りだったのか? 死後に罪が許されて、プレーナと一つになることで救われると考えていたのか? ではなぜまだここで祈り続けるのか……。
ヒラクにはどうしてもわからない。
敬虔なプレーナ教徒であったというアクリラの母親は、罪の意識で己を責めて、病に陥り死んだのだ。罪の自覚こそがプレーナ教徒のあるべき姿であり、信仰の篤い者たちほど、罪の意識で己を罰し、精神と肉体を病み、苦しみの果ての死に救いを求めた。
何のため、彼らは祈ってきたのだろう。求めてたどり着いたという聖地に心の平安はあるのだろうか。そこで繰り返される祈りは何を意味するのだろう。
プレーナと一つに溶け込んだ娘たちが再び木立の隙間から姿を見せた。
娘たちが現れる限り祈りは繰り返され、巨大な緑の女は何度でも現れる。
光に溶け込み、プレーナと崇める存在に吸収されるその瞬間だけが彼女たちの祈りの成就といえるのだろう。そのために繰り返される聖地での祈り。それはとても救いようのないことにヒラクには思える。
ヒラクには、人が求める「永遠」というものがわからない。
ヒラクが生まれたアノイの地では、死者は死者の国で生前と変わらない暮らしをいつまでも続けるといわれていた。その途方もない年月を思うと、ヒラクはぞっとする思いだった。
アノイの人々は、死んでも存在が消えるわけではないということで安心できたのかもしれない。だがヒラクは、終わりがないということは、何の始まりもないことだということを知っていた。そこには何の希望も芽吹かない、そんな気がしてならなかった。
けれども、死んでただ骨になるという父の考えも、ヒラクは真実として受け止めることはできない。自分という存在が消える、無になるというのは、むなしさを通り越して恐怖を覚えさせるものだった。
だから人は神という絶対者に永遠を願うのか? だが、それにただすがり従うだけの存在は、なんと悲しいものだろう。
死後もただひたすら祈りを捧げ続けるカトリナたちを見ていると、ヒラクはそう感じずにはいられない。
ヒラクは緑の光を放つ噴水に背を向け、木立の中に姿を消した。
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