第18話 代替わりの時

 ウヌーアは聖堂に向かっていた。

 隣にいるドゥーアの手を引き、水晶の階段を一段一段ゆっくりと上っていく。


 床に掘られた四角い堀池の水でドゥーアの体を洗ってやりながら、ウヌーアは優しく語りかけた。


「いよいよ代替わりの時を迎えることができるわ。しっかり体を清めなきゃね」


 ドゥーアはウヌーアを見て寂しそうな顔をした。


「そんな顔しないの。私はプレーナとしていつもあなたのそばにいる。そのためにはあなたの祈りが必要なの。わかるわね、ドゥーア」


 ドゥーアはこくりとうなずいた。


「ドゥーア(第二位の地位)と呼ぶのも、もうこれが最後。あなたは今日からウヌーア(第一位の地位)になる」


 そう言って、ウヌーアはドゥーアの緑の髪をなでた。

 二人は水の中から出て、静かに聖堂の中へと入っていった。


            

 

 聖堂はしんと静まりかえっていた。


 天井の水膜はうねるように模様を描く。それは水生動物の体の一部のようにも見え、脈打つ鼓動を感じさせる。水を通した柔らかな光は半透明の床に淡い緑の光を落とし、薄い陰の模様を映す。香炉から漂う煙が光と影の中をゆらゆらと漂う。空間全体が水底に沈みこむガラスケースのようだった。


 祭壇の前に座り、ウヌーアは祈り始めた。


「偉大なるプレーナよ

 万物を満たす大いなるものよ

 命の源、還元の主、

 永久に一なるものよ

 すべてを捧げん

 偉大なるプレーナ

 我が命は共にあり

 大いなる一つのものとなり……」


 隣でドゥーアが唱和する。


 ウヌーアはひざを打つこぶしのリズムを速め、髪を振り乱して激しく上体を前後させた。今にも気を失わんばかりの様子で、琥珀色の瞳は宙を泳いだ。


 隣に座るドゥーアも同じように体を揺らす。


 祈りの声の振動で、映像がぶれるように空間が揺らいだ。

 天井の水膜が鼓動を早めるように明滅する。

 空気の密度が濃くなり、水の中にいるような重力が二人の体を包む。


 祭壇にうがたれたアーチ型の穴から緑に光るものが流れ出す。それはうねるように形を伸ばしていく。そして一段下にある大きな銀の器の上でへびのようにとぐろを巻き、輪が積みあがるようにらせんを描きながらまっすぐに伸びていった。


 銀の器に光の円柱がそそり立つ。

 光の円柱は器の水を吸い上げながら、水とも光ともいえないものとなり、形を徐々に変えていった。柔らかな曲線、長い髪……、それは女の姿になる。


 銀の器の上に立つ淡く緑に発光する女は、姿を明らかにすると、ウヌーアを静かに見下ろした。


「ああ、偉大なるプレーナよ、我が母よ! 私はあなたの第一の娘。母なるあなたへ還元される者!」


 ウヌーアは感極まった様子で声を上ずらせて涙を流した。


 緑の光る水の女は、ウヌーアとそっくりな容姿をしている。それはヒラクが噴水の中に見た巨大な女とはちがい、等身大の光の映像がそこにあるかのような姿だった。


 光の女はウヌーアに微笑みかけ、両腕を広げた。

 ウヌーアはその胸の中に飛び込んでいこうとするように、ふらふらと立ち上がった。


「やっと……私は完全になれるのね。どうか、私のすべてを受け入れて……」


 ウヌーアは女に歩み寄ろうとした。

 だが隣にいるドゥーアがウヌーアの服のすそをつかんで離さない。


「何をしているの?」


 ウヌーアはドゥーアを振り返った。


「離しなさい、ドゥーア。どうしてそんなことをするの?」


 ドゥーアは今にも泣きそうな顔で口をとがらせてウヌーアをじっと見る。


「どうしたの? 母さんの言うことが聞けないの? おりこうさんね。母さんをあなたの祈りでどうかプレーナのもとへ送り出してちょうだい」


「……いや」


 ドゥーアはこらえきれずにぼろぼろと涙をこぼした。


「行かないで、母さん。そばにいて、一人にしないで!」


 ドゥーアは激しく泣きじゃくった。

 ウヌーアはどうしていいかわからないというようにただおろおろするばかりだった。


「どうして? なぜこんなことが……。ウヌーアはドゥーアの祈りでプレーナに還元される。それなのになぜ……」


「その子はそんなこと望んでないよ」


 声がして、突然の侵入者にウヌーアは驚いた。


 聖堂に入ってきたのはヒラクだった。


「……そういうことだったのか」


 ヒラクはウヌーアのそばにいるドゥーアをじっと見た。

 ドゥーアは怯えたようにヒラクを見ると、祭壇の裏に身を隠した。


「どういうことなの?」


 ウヌーアは困惑した様子でヒラクを見た。


「最初からおれは一人しかいない。おれはおれとして存在している。ただそれだけだ」


 ヒラクはウヌーアをまっすぐに見て言った。


「母さん、おれは神さまを探したい。それがプレーナであるのかどうか確かめたい。そのためにおれはここに来た。今、おれがここにいるのは、誰が望んだからでもない。おれが自分で決めたことだ」


 ヒラクは祭壇の前に近づくと、ウヌーアにそっくりな容姿の光の女を見上げて言った。


「おまえがプレーナか?」


 光の女の姿がぼやける。


「おまえが神さま?」


 光の女の姿が淡い光の残像となる。


「やめて、ヒラク!」


 ウヌーアはヒラクの腕をつかみ、光の女の前から遠ざけようとした。

 だが、光の女は水しぶきが飛び散るように拡散し、すでに姿を消していた。


「ひどいわ、なぜ代替わりの時を台無しに? どうしてこんなひどいことを……」


 扉の外で巨大な女に祈りを捧げていたカトリナもそう言ってヒラクのことを責めた。だが今のヒラクに自分のしたことを後悔する気持ちはない。


「母さん、おれは、おれが求める気持ちに、呼びかけに、応えてくれるのが神さまだと思う」


「あなたがプレーナを求めれば、プレーナは姿を現して応えてくれるわ」


「おれは、自分が望むとおりに作り上げたものが神さまだなんて思わない」


「よけいなことは考えないで。祈ればいいの。信じればいいの。あなたは信じる気持ちが足りないわ。だからプレーナは姿を消してしまった……。あなたが消してしまったのよ」


「祈らなければそこに存在しない神を、おれは信じることはできない。おれの疑いが神の姿を消すというのなら、最初からそこに神さまなんていないんだ」


 ヒラクは祭壇をじっと見た。


「ここに神さまはいない」


 水晶の祭壇に亀裂が走った。


「ヒラク……やめて……」


 ウヌーアは恐れおののいた。

 祭壇の上からしだれる天蓋の水草が液状化して、緑の雫がぼたぼたと床に落ちてくる。


 ヒラクは微動だにしない。

 ただまっすぐに、真の姿を見極めようと祭壇をにらみつけている。


「おまえの正体を見せてみろ」


……私はプレーナ……偉大なる者……


 深い水底から湧き上がってくるようなごぼごぼとした声の響きが空間全体を満たした。


「プレーナと呼ばれなければ、おまえは一体何者だ?」


……私は……


 水晶の床と壁に亀裂が走る。


「もうやめてーっ!」


 ウヌーアは絶叫する。


 ヒラクはゆっくりと、同じ言葉をくりかえす。


「おまえは一体何者だ?」


 水膜の空が暴れ狂うように伸縮する。


 ヒラクは祭壇をみつめて言い放つ。


「プレーナと呼ばれなければ、おまえはここに存在しない」


 水晶の祭壇が噴き上げる水の飛沫のように粉々に砕け散った。

 その後ろに隠れていたドゥーアは小さな悲鳴をあげた。

 ドゥーアはひざを抱えて座り込み、身を固くして震えていた。


「怖いよ……寂しいよ……。一人にしないで……置いていかないで……」


 泣きじゃくるドゥーアの前に立ち、ヒラクは手を差し出した。


「おいで……


 顔を上げてヒラクを見たのは、五歳の頃のヒラク自身だった。


 ウヌーアがドゥーアとしてそばに置いていたのは、五歳の頃の小さなヒラクだったのだ。


「ごめん、おまえを置き去りにして」


 ヒラクは悲しそうにつぶやいた。


 ヒラクは、母と別れた五歳の頃を分岐点にして、「ヒラク」としてアノイで育った自分と「フミカ」として母とプレーナで暮らしていた自分とに分離したと考えていた。


 だが、そうではなかった。


 母を失ったばかりの頃、ヒラクは五歳の自分に立ち返ることがしばしばあった。

 もしもあの時、母が自分を連れて行ったならどうなっていたのか……。

 考えても仕方がないことで、想像もむなしく、ヒラクはいつしか五歳の自分を思い出すこともなくなった。


 いつまでも、五歳の頃のヒラクは成長したヒラクに顧みられることもなく、一人きりで暗闇の中で癒せない悲しみを抱いていた。

 その五歳の頃のヒラクをみつけたのはウヌーアだった。

 ウヌーアの中でヒラクは別れたときの五歳のままの存在だった。

 小さなヒラクはウヌーアの愛を貪欲に求めた。

 だがウヌーアは五歳のヒラクにドゥーアとしての役割を求めた。


 五歳のヒラクはウヌーアに悲しみを癒されることはない。それでも母から離れられずにいる。

 今、成長したヒラクの目の前にいるのは、行き場のない迷子のように震える五歳のままで時が止まったヒラク自身だ。


「おいで」


 差し出された手を、小さな五歳のヒラクはおずおずとつかんだ。


「だいじょうぶ。もう、一人じゃないよ」


 ヒラクは五歳の自分を包み込むように抱きしめた。


 五歳のヒラクは自分の中から温かいものがにじみ出てくるのを感じた。そしてそれは抱きしめるヒラクの中にも伝わった。ぬくもりの中で五歳のヒラクは姿をかすめていく。


(……ありがとう)


 それは五歳の自分が言った言葉なのか、それとも今の自分の中から湧き出した思いなのか、ヒラクにはもうわからなかった。


 天井の水膜が裂け、淡い緑の水が漏れ出すのと同時に、聖堂の壁が、床が、目の前にあるものすべてが液化して、雨に濡れた水彩画のようにその色と形をあいまいなものにした。


「もう終わりよ……あなたのせいよ……」


 ウヌーアは床にはいつくばるようにして打ちひしがれていた。


「あなたは私を破滅させたいの? 私が憎いの? 苦しめたいの?」


 ウヌーアは溶けだした空間の中で、涙に濡れながら、ヒラクを責めた。ヒラクはそんな母を静かにみつめる。


「ちがうよ、母さん。おれは母さんのことを恨んでも憎んでもいない。おれが今ここにいるのは、母さんのおかげだから……」


 そう言って、ヒラクが口元に笑みを浮かべたとき、天井の水膜が弾けるように裂けた。


 上から一気に水が落ちてきたかと思うと、聖堂は一瞬で消え失せた。


 気づくとヒラクは淡い緑の水の中にいた。

 様々な意識がヒラクの中に流れ込んでくる。

 プレーナと一体となる喜び、罪の意識からの解放、楽園のイメージ、緑豊かな土地での生活……。

 そして……


(母さん、そこにいるの?)


 ヒラクは母に意識を向けた。


(母さん、おれは、母さんの望むプレーナの子にはなれないよ。おれは神さまを探したい)


 ヒラクはウヌーアの言葉を待った。だがウヌーアはヒラクに何も語ろうとしない。  

 それでもヒラクは姿の見えない母に意識を向け続けた。


(それでもおれを生んでくれる……?)


 淡い緑の水が色を失いかけていた。

 様々な意識が途絶え始め、辺りは暗くなりかけている。


 闇がヒラクを包もうとしていた。


 薄暗闇の中、ヒラクはぼんやりと浮かび上がる銀色のアーチ型の扉をみつけた。

 それは、聖堂から外につながる扉だ。


 聖堂は消え失せ、闇だけが残った。


 扉がゆっくりと開いていく。

 扉の隙間から明るい光が差し込んでくる。


 ヒラクは後ろ髪を引かれる思いで闇の中の母を想った。

 その瞬間、闇が重い水のように体にまとわりついてきた。


(おれは行く!)


 ヒラクは闇を振り切った。


 扉は完全に開かれた。


 眩しい光にヒラクは吸い込まれていく。


 ヒラクは扉の外の光に体が溶け込んでいくのを感じた。


(母さん……おれは……おれを選ぶ……)


 ヒラクの中に光が満ちる。


(さようなら……)

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