第38話 抱擁と眠り

 ヴェルダの御使みつかいと離れたヒラクは、ユピに連れられ、階段を上がって別部屋に入った。


「ヒラク……会いたかった……」


 部屋に入るなりユピはヒラクをきつく抱きしめた。


「ユピ、どうしたの?」


 ヒラクは驚き戸惑うが、自分を抱きしめるユピが小刻みに震えているのに気がついて、そっと背中に手を回した。


「ユピ、大丈夫?」


「……怖かった。怖かったんだ、ずっと……。君がいなければ、僕は僕じゃいられない。暗闇に呑まれるように……僕の存在は消えうせる……」


 ユピはしがみつくようにヒラクを抱きしめ嗚咽する。


「……ユピ、また怖い夢を見たの? ごめん。おれがユピを一人にしちゃったから……」


 ヒラクは申し訳なさそうに言った。

 ユピはヒラクの肩に手を置いて、銀糸のような前髪の隙間からヒラクの顔をじっとみつめる。


「いいよ。君は戻って来てくれた。僕の望む本来の姿で、


 ヒラクはユピが自分を女として見ていることに戸惑った。


「ユピ、知っていたの? おれが、女だってこと。今までずっと?」


 ユピは柔らかな笑みを浮かべ、濡れたまつげに縁取られた青い瞳を潤ませた。


「知っていたよ、ずっと。いつだって君は僕にとってたった一人の大切な女の子だった」


「知っていて何も言わなかったんだ……。教えてくれたってよかったのに」


 ヒラクは腹立たしいような気恥ずかしいような説明のつかない複雑な気持ちだった。そしてユピの腕を振り払うようにヒラクは体を退ける。

 ユピはひどく傷ついた表情でヒラクを見た。

 ヒラクはすぐに自分がしたことを後悔した。


「ごめん、おれ、どうしていいかわからないんだ。急に女の子だって言われても、おれは今までのおれでしかいられなくて、だけどそれは男の子としてのおれで……」


「……ヒラク、いつか僕に言ったことを覚えてる?」


 ユピはなつかしむような目でヒラクを見た。


「君は言ったね。『おれのお嫁さんになってよ。そうしたらずっと一緒にいられるよ』って」


 それはアノイの地でヒラクがユピに言った言葉だ。ヒラクもそのことをよく覚えていた。


「だっておれ、ユピが好きだし、お嫁さんになったらずっと一緒にいられるって聞いたから……」


「ずっと一緒にいられるよ。君が僕のお嫁さんになればいいんだ」


「……」


 ヒラクはどう答えていいのかわからなかった。


「僕と一緒にいたくないの?」


 ユピは何も答えないヒラクを不安げに見る。


「そんなことないよ」


 ヒラクはユピを傷つけたくなかった。

 一緒にいたいという気持ちに嘘はない。

 だがユピが望むことを自分が望んでいるかどうかはヒラクにはわからなかった。

 戸惑うヒラクの様子を見てユピは悲しそうな顔をする。


「ヒラク、僕と一緒にいて。ただそれだけでいい。僕と一緒に来てほしい」


「一緒にって、どこへ?」ヒラクはユピに聞き返した。


「神帝国だよ」


 唐突にそう言われて、ヒラクは混乱した。

 どう反応していいのかわからず、すぐには言葉も出なかったが、ユピの顔がひどく青ざめて見えてヒラクは心配になった。


「ユピ、具合でも悪いの?」


「……いや、ちょっと緊張しているだけだよ」


 ユピは額に浮かぶ汗を指先で拭った。


「神帝国に行けば何不自由なく暮らすことができるって、ある人に言われたんだ」


「ある人?」


「うん、神帝国のえらい人だよ。今もここにいる。その人が僕を迎えに来たんだ。ずっと僕のことを探していたらしい」


「どうしてユピを?」


「それは……」


 ユピは表情を曇らせる。


「……神帝国に行けば君にもわかるよ。僕が何者かってこともね。だけど、そんなこと僕にはどうでもいい……」


 ユピはつらそうに顔を歪める。


「ユピ?」


 ヒラクはそっと手をのばした。

 ユピはその手をつかみ、ヒラクを再び胸の中に抱き寄せた。


「その名前をこれからもずっと僕のそばで呼び続けてほしい。そうすれば僕は僕のままでいられる……」


 ヒラクは、今度はユピから離れようとはしなかった。

 自分を抱きしめるユピがあまりにも頼りなげで、崩れ落ちそうなユピをしっかりと支えなければいけないと思った。


「わかった……。おれ、一緒に行くよ」


「ありがとう、ヒラク」


 ユピはヒラクの耳元で安堵の息を漏らした。

 今のユピは自分なしでは本当に生きていけないようだとヒラクは思った。

 そしてヒラクにとってもユピはかけがえのない存在であることに変わりない。

 セーカで離れ離れでいたときの不安と焦りを思えば、一緒にいられるということに何を迷う必要があるだろう、とヒラクは自分に言い聞かせた。


「ヒラク、今日は疲れただろう? ここでゆっくりと休むといい」


「うん、でも、それなら一度あの人のところに戻ってからでいい?」


 ヒラクはヴェルダの御使みつかいのことを思い出して言った。不安げな顔で自分を見送ったヴェルダの御使いの姿が目に焼きついて離れない。


「心配してるだろうし、すぐ戻るって言ったから……」


 すがるようなユピの青い瞳にみつめられ、ヒラクは言葉をつまらせる。

 ユピは悲しそうに目を伏せる。


「……ずっと、眠れないんだ。せめて僕が眠りにつくまでここにいてくれる?」


 そう言って、ユピはヒラクの手を握る。その手を振り切ってまでヴェルダの御使いのもとに行くことはヒラクにはできなかった。


 ヒラクとユピは部屋に備え付けられた寝台に並んで横になった。

 アノイの地にいた頃も二人はずっとそうして一緒に寝ていた。


「こうやって一緒に寝るの、何だか久しぶりに感じる……」


 ヒラクは横向きに寝返り、ユピをみつめてつぶやいた。

 ユピもヒラクと向き合って、うれしそうに微笑みかける。

 ヒラクは、ユピの隣が自分の安息の場であることをあらためて実感した。

 安心感がヒラクを包む。


 あっというまに先に眠りに落ちたのはヒラクの方だった。


 ユピはいとおしむようにヒラクの頬に触れると、その深い寝息を確かめて、一人で部屋を出て行った。

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