第10話 死華(しにばな)(2)

       *

天正十年六月二日、薄らと東の空に陽がさす牛の刻丑の下刻頃、明智光秀の軍勢が信長の寝首を刈ろうと本能寺に迫っていた。明智軍は四方向から進軍しつつあった。それはまるで無数の黒い軍隊蟻が群がって餌食とするかのようであった。

誰もこのような事態を予想だにしなかったために警戒を怠り、あっという間に進入されてしまっていた。

本能寺に侵入した明智の雑兵達はあちこちに散り、周囲に緊張と殺気を撒き散らしながら探索していた。

「どこにおるんじゃあ……」

雑兵たちは緊張と不安の熱い汗を額に浮かばせ、声を殺しながらつぶやく。そんな兵の一人が井戸のそばで体を拭う信長を発見し、思わず固唾を飲む。

「————おった!」

雑兵は声を殺してつぶやく。

当の信長は雑兵が近付きつつあることに全く気付いていなかった。信長はいつもの朝と同じく冷たい井戸水で、寝汗を拭いて気持ちのよい風にあたって朝支度をしていた。

そんな様子を遠巻きに覗き見ていた雑兵は息を殺し、眼をギョロリとさせながら仄暗い物影から信長に狙いを定める。兵の額からはゆっくりと緊張の汗が垂(しず)り落ちる。武者震いか、手の震えを必死に抑えながら弓を引き、その雑兵は矢を放った。


       *


信長はその日、博多の豪商島井宗室を本能寺に招いて、茶会を催すことになっていた。安土より三十八点の茶器を持参していたのも、そのためだった。昨日は突如京へ訪れたために自身の顔色を伺う公家連中が本能寺に押し寄せ、挨拶を受けたが、信長は早々に追い出して茶会の日を迎えていた。

信長が島井宗室との茶会を開催したかったのは、何も茶器だけが目当てだったわけではなく、既に中国征伐の先、九州征伐も視野に入れた、天下統一を進行させるための大事な布石でもあった。

そんな信長の喉元に、死を招く魔縁がまさに首を刈ろうと、短刀を喉元に突きつけているとは、自身さえ知る由もなかった。

その日の早朝、白い着物を羽織った信長は、本能寺の中庭にある井戸で水を汲み、顔と手を洗い、左右両方の肩を出し、上半身裸になると手拭いで体を拭っていた。

ちょうどその頃、本能寺に侵入していた雑兵が物陰に身を隠し、虎視眈々と獲物を狙う獣のように、矢を構えていた。放たれた矢は静寂な空気を切り裂きながら、信長に突き刺さった。

「ぐがああああああぁ! なんじゃ! ククゥ……」

突如襲った激痛に信長は倒れ込む。矢が刺さる背に目をやるとその向こうの塀に雑兵が見えた。信長はすっかり取り囲まれていることに気が付いた。

「何者じゃぁ。出合え、出合え、者ども。曲者じゃぁ! 長槍を持て!」

信長の怒声が本能寺を突き抜けた。


       *


本堂で蚊帳を吊って寝ていた森蘭丸をはじめとする長氏、長隆の森兄弟、小河愛平、高橋虎松、魚住勝七などの小姓衆は、昨夜の酒に酔いしれてまだ眠りこけていたが、信長の猛々しい怒声を聞きつけて、ほぼ同時にガバッと跳ね起きた。そして各々の武器を手に血相を変えて信長に駆け寄った。

蘭丸は何やら騒音を耳にして胸騒ぎがしていた。既に本堂の周囲では明智の雑兵との死闘の荒げる声や断末魔が、蘭丸の耳にも漏れ聞こえ始めていた。蘭丸は信長に武器を差し出す。

「殿、長槍を!」

蘭丸は、周囲の騒音から只事ではない、という空気感を敏感に感じ取っていた。その時、本能寺の防壁の向こう側に旗が立ったのが目に入る。

「あ、旗が見え……」

蘭丸は驚愕のあまり言葉を失う。それは織田家随一の謀略家にして残虐非道と恐れられた宿老の裏切りだったからである。

「き、桔梗の紋……」

それは瞬く間に蘭丸から体温を奪い取り、瞬時に屍体に変色したかのように思わせた。

また、信長の顔色も一変させる。

「————光秀か」

「殿、落ち延びてくださいませ、お早く……」

「正気か、蘭丸。狡猾な奴のことだ、すっかり囲んで蟻の這い出る隙間もありゃぁせんわ。……よい。わしに構うな。撫で斬りにせい。わしらだけじゃ、地獄が寂しすぎるわ。この本能寺に血の雨を降らせ、屍体の山を築こうぞ」

信長の顔には悲壮感など微塵もなく、血の雨地獄を楽しむかのようでさえあった。

蘭丸はそんな信長をみて情が熱くなるのだった。

「ははっ。それがしも血ぬりまする」

そう告げると、信長に集う御側衆に視線を向ける。

「者ども、殿をお守りしろ。続けぇ……」

その声に宿る死華の香りが、御側衆の恐怖に怯えた色を吹き飛ばし、残忍な殺意の色に変えた。それだけ言うと蘭丸は、波打ち際の岸壁にならんと、御側衆を引き連れて攻め寄せる雑兵に斬り込んでいった。

槍で突き、刃を勢いよく、ブゥンと横へひと振りすれば首が吹っ飛び、血の噴水が上がる。同情も悲哀の情もない、背筋が凍る戦場で年端も行かぬ若侍の生温かい血が、大地を赤く染めていた。


       *


一方、本堂や厩舎に控えていた矢代勝介、伴太郎左衛門などの馬廻衆、中間衆の藤九郎、藤八、彦一、弥六などは、何が起きたのか理解できずにいた。

「な、なんじゃ……どうなっておる……」

厩から出た馬廻衆の伴太郎左衛門は、目の前の光景にギョッとせざるを得なかった。本堂には火矢が無数に刺さり、黒煙をあげており、どこから現れたのか、甲冑に身を包む雑兵の群れに囲まれていたからだった。まだ悪い夢でも見ているのか、自分の眼を信じることができずにいた。襲いかかる敵に無我夢中で抜刀し、恐怖を払い除けるかのように奇声をあげ、打ち込まれる太刀を受け流すのが精一杯となっていた。

伴太郎左衛門は、敵の刀によって頭を横にはらわれた刹那、刃とは別に、なぜこのような事態になったのか、という疑問もその頭をよぎったのだった。


       *


信長は、矢を受けた激痛に顔を歪めながらも、その矢を抜き捨てて、槍を構えた。本能寺のあちこちで血生臭い死闘が繰り広げられる中、その能面の般若のような形相で長槍を構える様は、血に飢えた猛獣のように見え、周囲の敵をたじろがせた。信長は悪鬼羅刹がごとく、荒々しい叫び声と共に、長槍を振り回し、明智兵に襲いかかった。そんな悪鬼の深く踏み込んだ長槍は、雑兵を次々と串刺しにしていた。

「ギヤァ……鬼じゃぁ。グァガガ」

殺意をギラつかせる猛獣に怯える明智兵の断末魔が、響き渡る。それは周囲の兵の顔色を恐怖に染めた。

斬り捨てられた誰かの足や手、水からあげられた魚のように、パクパク口を動かす虫の息の雑兵たち、誰かの血溜まりに足を取られて斬られる者、取り憑かれたように振り下ろす刀を受ける鈍い音、どこかしこで奇声や悲鳴が響き渡るなど攻防が繰り広げられていた。

そんな地獄で信長は阿修羅のような槍さばきで雑兵に長槍を突き刺し、死闘に身を投じていた。

「ぐあらぁ!」

奇声をあげた信長の渾身のひと突きが雑兵の右脇腹に突き刺さる。

声にならない悲鳴をあげながら苦痛で体をくの字に曲げる雑兵。

「ぎゃああああ」

容赦無く、グイグイとめり込んでくる信長の槍に悶絶する雑兵は、顔を歪ませながら後退りする。そして槍を抜くと糸が切れた人形のように崩れ去るのだった。信長の足元にはそんな猛烈な苦痛で白目をむいて悶絶する雑兵達が転がっていた。

「……ギャーァ……ガガァ」

顎が外れたかのように口をガッと開き、血や涎を垂り落としながらも、声にならない悲鳴をあげて、のたうち回る雑兵達の姿が、信長への恐怖に華を添えていた。

信長の白い着物や、鬼面に浴びた返り血の奥から覗く鋭い眼光には、醜悪な殺気が宿していた。

そんな鬼を目の前にした明智の雑兵達は、明らかに恐怖で全身が凍りついた様子で、後退りする以外になかった。

「我と共に地獄へ行こうぞ! ガハハハハッ」

返り血を浴びた鬼の形相は、まさに醜悪な物怪そのもので、その呪わしい笑い声は周囲に冷たい空気を張った。

雑兵たちは信長の足元で転がる屍体に視線を移す。

自分の死顔をみたかのように恐れを抱き、膝頭はガクガクと震えていた。信長には今まさに死華が開花していた。

「……」

だが、ふと戦場を見渡した時、そこに咲き誇る死華を眺めて、ただ凝然と立ち尽くしていた。多くの明智兵が、死骸に群がる蟻のごとく攻め寄せていた。その圧倒的な状況に、信長は一心不乱に槍を振るう虚しさを感じていた。

ピュン……ピュンピュン、ダダーン、ダダダダーン

信長に矢の雨が無情にも降り注ぎ、鉄砲の轟音がこだまする。

それらは信長の目の前で、周囲を固める小姓達に突き刺さり、または肉を貫き、次々と倒れ込んで非業の死を迎えた。

信長も腕に銃弾を受けて膝をつく。信長はいよいよ己の最後の刻がきたことを悟った。

蘭丸が信長の元へ駆け寄る。

「殿、もはやこれまででござりまする。御自らのお働き、恐れ多し。殿におかれましては我らが食い止めまする故、いざご生害を!」

森蘭丸は懇願するかのように信長を見つめていた。

「うむ……」

もはや信長の眼から獰猛な殺気は消え失せていた。攻め寄せる明智の雑兵との血祭りに身を投じた信長は、血だるまになりながらも本堂奥の常の間に退いた。

そして、どこからともなく炎が燃えさかり、あっという間に本能寺は業火に包まれた。信長はその炎に囲まれた中で切腹してこの世を去るのだった。

非情の業火で、本能寺の柱や壁の木材が破裂しながら崩れ落ちる轟音は、

「む、無念じゃ! 無念じゃ……」

という猛り狂う信長の声のように聞こえるのだった……。

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