第15話 夜泣きの山 (2)

由己は勝三に先導されて馬で掛川を通り、勝龍寺城を素通りして、明智光秀が敗れた山崎の南部に位置する洞が峠に着いた。既にあたりは夕暮れ時であった。

「山賊の隠れ家はこの近くか?」

「まぁ。されどじゃ、旦那、悪いがここからは目隠しをしてくだせぇ。粗末なものだが駕籠を用意してるんでぇ」

そういうと、勝三は懐から黒い布を取り出し、由己の目を覆う。

「おい、早くしろい」

「へへっ」

勝三が何やら物陰から現れた数人に指示を出しているようだった。由己は隠れ家に着くまで本能寺のことを思い返そうと思ったが、ここに至る道中で、勝三以外の気配は何も感じなかったことに、今更ながら怖気づき、不安で落ち着かなくなっていた。それに遠くから確かに変な遠吠えのような、耳を塞ぎたくなる悲鳴が聞こえてくることも心よどむ原因であった。

ウォォォォォォォォォォォォォォォ…………

————なるほど『夜泣き山』かあ。

それでも由己は駕籠の心地よい揺れに身をまかせ、本能寺での事変を思い起こしていた。


まだ誰も目が覚めやらぬ東雲の刻、明智の軍勢が本能寺へ進撃。本能寺が取り囲まれる。信長が中庭の井戸水にて体を拭っていたところ、侵入した明智の雑兵に射られて負傷。じゃが信長の死闘があったかはわからぬ。信長の近習、馬廻衆が襲撃に気が付き、攻防が繰り広げられた。多数の屍体からもほぼ事実と見て良いじゃろう。して女中の黄津が常の間で負傷した信長を目撃。近付こうとするが何者かに襖を閉められる。そして次、目撃した折、その何者かに抱えられて逃げ出すところじゃった。どうやって信長が、明智軍の包囲網から誰にも気付かれずに抜け出せたのか? 大きな謎の手がかりは何もわかっておらず。


————そういえば、なぜあやつはそんなことを……。

ここで由己はふと妙な事に気がついた。疑問が頭をよぎった刹那、勝三が誰かと会話し始めたことに気を取られ、そんな疑問もすっかり忘れてしまった。

「おう、勝三じゃねぇか。久しいの。どうしたい?」

乱暴な声が木の上から降ってくる。どうやら見張りは木の上らしいことはわかった。

「あ、久左衛門か。見張りご苦労さん、茶でも入れてやろうか?」

久左衛門は笑って答える。

「たわけ、何が入ってるかわかったもんじゃないわい、おぬしの茶なんか飲むか」

会話を聞いていた由己は鼻白む。勝三も答える。

「わしの茶は本物じゃ。たわけた事を……。して弥三郎親分はいるかい。客人を連れてきたのよ」

「おう、通りな」

見張りの久左衛門からしばらく進んだところで駕籠は止まった。駕籠者が由己を降ろし、目隠しをとる。だがとってもあまり視界は変わらないほど、周囲はすっかり不明瞭な山懐で、しかも火灯し頃だった。

由己は木々や夏草が群生するどこかしこに通じる小径の前にいた。その小道を遮るように、袴をはだけて着る屈強の男たちが仁王立ちしていた。

「客人、ご案内しやす」

男たちが怪を開けると勝三が先に歩き、由己はその後に続いた。生い茂る小怪の両側には所々に松明が灯されていたが、あたりを闇が包み込み、何も見えないでいた。そして、先ほどよりも例の夜泣き声が近くで聞こえていた。闇夜に松明の火という状況も相まって、由己の背筋に悪寒が走る。

勝三が歩調をゆるめて由己のそばにやってくる。

「旦那、まずは弥三郎親分に会ってもらうぜ。そこで交渉すればよし。怪悪いんで足元を気をつけなすって」

しばらく小径を進むと、雑木林を抜けて広場に出た。そこも元々は雑木林の一部であったらしいが切り株が多数見えるところから、切り倒した一角に屯しているものと思われた。松明の炎の向こう側で、切り株に腰掛けた親分の姿が暗闇に浮かび上がる。

肌に直接胸当てを装着して、その上から袴をだぼんと羽織っていた。鍛え上げた筋肉がむき出しになり、まさに猛獣そのものであった。ギロリと睨みつける目の奥に醜悪な殺気を宿していた。また親分の周囲で同じように目を光らせる子分たちが屯していた。

賊の顔や身体が松明に照らされた汗のせいで炎色に変わり、まるで妖怪のように見えるのだった。そして不気味な夜泣き声が辺りに妖気を漂わせていた。由己は恐怖で凍りつきそうな思いを必死に抑えて冷静を装っていた。

「弥三郎親分、勝三めに。ご無沙汰しちまって。今日は客人を連れて参ってございやす」

「勝三、いつぞやは世話になったなぁ。大儲けできたわ。して今日はその客人が儲け話というわけかい。客人、何か飲むかい?」

すかさず勝三が答える。

「あ、わしの茶なんかどうじゃ」

弥三郎親分が笑いながら、

「おぬしの不味い茶なんぞいるか! 酒もってこい酒」

子分はゲラゲラ大笑い、勝三は苦笑いで、そんな茶を楽しんだ由己は鼻白んでいた。

弥三郎親分は、視線を由己に向ける。笑顔を作ってはいるが、目ははっきりと、猜疑の色を滲ませていた。

由己は目の前の弥三郎親分から放たれる狂気や妖気を一身に喰らい、たじろぎそうになるのを必死に堪えていた。そして、この場は嘘偽りなく正直に名乗った方がよいと悟らせた。

「それがし、播磨の大村由己と申す者。羽柴秀吉が家臣であるが、軍記物語を書く、物書きじゃ。おぬしたちを取り締まるつもりは毛頭ない。実は力を借りたいのじゃ。今、本能寺で起こった事変を題材に物語を書くのに、下準備をしておるところじゃが、仔細がわからぬ。聞いたところによると、こちらに明智方の雑兵がおると聞いたのじゃ。本能寺の襲撃を知っとる者がいれば、其奴を買い取りたいのじゃ。いかがかな?」

羽柴秀吉の家臣と聞いて弥三郎が『ほほう!』という意外な顔つきになったのを由己は見逃さなかった。それは何やら企みのあるものではなく、やや親しみを感じさせるものであった。由己は怪訝な顔をされるかと思っていただけに意外だった。

そして子分の一人が、弥三郎親分に耳打ちして何やら伝えた途端、下品な笑顔を作ってきた。

「ほう、羽柴方か、其方は。わしら京周辺を根城にしとる賊じゃが、羽柴家中からは度々稼がせてもらっとる」

由己は思わずギョッとした。そんな事情など何も知らなかったからである。まさかこんなところにまで秀吉の手が伸びていようとは、それに無法者の山賊でさえ秀吉の手足となって動いているとは、さすが『人たらしの名人』といったところか。由己は関心を通り越して、秀吉の不気味な影が背に迫り来るようでやや気味悪さを覚えた。

 一方、産毛がゾワッと逆立つような夜泣き声が鳴り止むことはなかった。弥三郎親分は子分を呼びつける。

「おい、あれ! 大事な客人がいるのにうるせぇ! 黙らせてこい!」

元々乱暴ではあるが、さらに乱暴に子分に命令する様子を見て、由己は何が始まってしまうのか、ゾッとさせる修羅場が頭をかすめる。

その弥三郎が言うには、なんと長浜から京、京から備中高松までの早馬の最短通路を確保するため賊に銭を払っていたようなのである。このため、羽柴秀吉は織田家中で誰よりも正確な情報を確保し、迅速に兵を返すことができたのである。

通常、何か事変が起これば、噂がたつ。しかし、いい加減な噂を鵜呑みにするわけにはいかず、真意を確かめる必要があった。本能寺の変八日後、噂は越中の柴田勝家と対峙していた上杉景勝の下にも次のように届いていた。

「毛利が播磨と摂津の国境で羽柴秀吉を包囲したのでその救援の為に信長が出陣したが秀吉は死亡し、軍を返した信長は撤退の途中で津田信澄の謀反に遭遇して切腹した」

この噂では信長の弟信行の嫡男、信澄が信長を殺したことになっていた。戦場では特に何が真か、何が流言か、区別がつかない。由己はなぜあれほど早く兵を返すことができたのか疑問であったが腑に落ちたのだった。そして彼ら山賊の働きがいかに絶大だったか、おそらく彼ら自身理解できていないのだろうと由己は思っていた。

「其方の申状はわかった。羽柴方にはわしらも協力しようぞ。が、わしらでは其方が欲しい雑兵がおるかわからん。直に探してくれんか」

「弥三郎殿、かたじけない。して、お代の方は一人分でいかほどになる」

弥三郎はジッと由己を凝視していた。

ギャアアアアア……

どうやら先ほど、夜泣き声を止めに行った子分が何かしでかしたらしく、泣き声だったのがけたたましい悲鳴に変わっていた。

「……五十貫じゃ」

弥三郎のそばにいた子分は、やや狼狽える姿を見せた。それは悲鳴にではなく、弥三郎親分が口にした金額に驚いた様子であった。

由己は悲鳴の揺さぶりに動ずることなく、必死に冷静を保つ。

「わかった。五十貫じゃなぁ。後程、勝三に支払うということでよいか」

「お、おう」

今度は弥三郎がたじろいだ。そして弥三郎は笑い出したのである。由己も全てを察すると笑顔になった。弥三郎の顔はすっかり晴れた表情となっていた。

「いや、参った。楽しい御仁じゃ。おい、野郎ども、明智方の檻へ案内せい」

弥三郎親分の声に子分が反応する。

「へへい。お客人、こちらへ」

由己は弥三郎親分に一礼すると奥に通じる小径を歩いて行った。その後ろ姿を見守る弥三郎は笑っていた。それは大儲けしたからではなく、大損したからだった。これは後で勝三から聞いた話だが、この時、弥三郎は子分も仰天するくらいの高額をふっかけたのだが、まさかあっさり了解されるとは思わなかったらしい。直前に子分が、

「羽柴は金払いがいいので、ふっかけやしょう」

とかなんとか声をかけた。その子分の予想を超える額をふっかけた弥三郎親分だったが、羽柴方の由己にとっては大した額ではなかった。もっとふっかければよかったと少し後悔が生まれたことに弥三郎は笑わずにはいられなかったということだった。

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