第16話 夜泣きの山 (3)
「客人、足元をお気をつけて……」
松明を持つ子分が先導する。コロコロコロ、ギィーギィー、暗闇と虫の音に包まれた小径を歩く。
ウォォォォォォォォォォォ……
ただ、それらに混じって、先ほどまでとは別人の不気味なうめき声も混在し、由己はゾ〜ッと産毛が逆立つ感覚に襲われた。ゆらめく仄灯りでぼんやりと浮かび上がる木々の梢は、妖婆の皺々の冷たい指が首筋にまとわりつくような恐怖を沸き起こすのだった。
「うわっ」
灯に引き寄せられた虫が顔にあたり、無意識に声がでる。
「客人、大丈夫で。檻はすぐそこで」
「ただの虫じゃ。大丈夫じゃ」
しばらくすると由己の目の前に絶壁が現れ、行き止まりとなっていた。その岩肌の一部が自然と窪みを形成していたのか、それとも繰り抜いたのか、いずれにせよ洞窟のような窪みができており、それを塞ぐように木の柵が組まれて、檻となっていた。そのような二〜五人入れるくらいの狭い窪みが点在していた。
「客人、これらが明智方の檻になりやす」
由己は思わずゾッとした。檻の中の暗闇から、かすかにギョロッとさせる眼球が由己を睨みつけ、不気味な息遣いと、うめき声のみが聞こえてきたからである。そして鼻が曲がりそうな悪臭が漂うのだった。檻からよくみえる場所には、逃亡を図った者が磔にされており、直視できない凄絶な腐乱屍体となっていた。檻には一切の明かりはなく、目を細めてよく見ると暗闇の中で動く人影を見ることができた。
囚われ人は無精髭を生やして痩せ細り、ボロをかろうじて身にまとっている者もいれば、ほとんど裸でふんどしのみの者もいた。そして自然と崩れた髷が蓬髪(ほうはつ)となり、だらんと不気味に垂れ下がる様は亡霊か、物怪を思わせるのだった。
食事は生命維持に必要な分のみ与えられ、生気は感じられない。正気を失い、無意味に絶叫する者数知れず。山中に響き渡る悲痛な唸り声こそ、夜泣き山の正体だった。
由己は早速ひとつ目の檻に近付き、声をかけた。
「もし、この中で明智軍に従い、本能寺に侵入した者はおるか。おればワシが其方を買い受ける。どうじゃ。おるか?」
檻の中の暗闇から走って駆け寄ってきて、木の柵の間から必死に手を伸ばす者が現れた。
「わしゃあ、本能寺へ行ったぞ。助けてくれ。こんなとこで死ぬのは嫌じゃ……だ、だずげでぇ……」
囚われ人の強い情がその者の眼玉の毛細血管を膨張させる。そんな血走った眼玉を剥いて訴える声に、由己は波立つ情を必死に抑えながら声をかける。
「おぬしが本能寺へ行ったという証拠は有りや無しや。確証がなくば、買い受けることは能わぬ」
その男の眼玉から血の涙が溢れ出る。
「助けてぇ〜、死にたくない……。だずげでぇ〜」
格子の合間から絶叫する囚われ人は、由己の耳から、眼から襲い掛かった。しかし、由己は溢れ出る熱い情に耳を塞ぎ、震えながら瞼を閉じる。そして何も言わずに次の檻へ向かい、同じように問いかけた。しかし、地獄に仏と言わんばかりに、狂乱状態で格子の隙間から手を伸ばして由己にすがりつこうとし、助けを乞い、泣き叫ぶ者のみだった。その次の檻でも同じだった。由己は、どん底の地獄へ落ちた者たちにとって、もう一度現世に帰ることができる唯一の梯子(はしご)のようなものだった。
取り憑かれたかのような狂気にはらんだ眼を剥いて助けを請う。
「助けてぇ。こんなとこで死とうない。わしゃはめられたんじゃ……」
餓鬼化した囚われ人がその梯子に、消えかかる生命を賭して、怒涛の勢いでしがみつこうと群がっている有様だった。無数の手が由己に迫り、しがみつこうと、狂乱していた。
その餓鬼のおぞましいまでの強欲に正直、由己は圧倒されて経験のないほどの戦慄で、ガクガクと震えるのだった。
————まさかこれほどまでとは!
予想だにしていなかった由己は思いもよらぬ困難に直面していた。それは果たして、本当にこの中の誰かが本能寺にいたとしても、それを由己がどうしたら信用できるか、ということだった。由己自身、本能寺襲撃の実態がわからない以上、嘘を見抜けない。
由己は点在する檻を歩き回りながら、同じことを言い続けた。だが由己の問いなど耳に届いてもおらず、ただ助かりたい一心で半狂乱的に押し寄せるばかりだった。ここにきてなぜ勝三や弥三郎親分が、自分に直接吟味させたのか、由己はようやく理解した。
そんな檻がしばらく続いた後、正気を保った声色で語りかける男がいた。
「旦那、旦那、オイラは本能寺へ行った。本当だ。信じてくだせぇ」
亡霊にしがみつかれたような由己は、もはやそんな言葉には見向きもせず答える。
「その言葉はすでに何度も聞いておる……」
その男は一心不乱に由己をつなぎ止めようとする。
「お、おいら、首二つとって褒美をもらったんだぁ……信じてくだせぇ、旦那」
「さっきの檻の奴は首五つとったと言うとったぞ。おぬしは少なかったなぁ……」
段々と気持ちが滅入っていた由己は、それだけ吐き捨てるように言うと、その檻に背を向けて立ち去ろうとした。その刹那、気がはやるその男はどもりながら、
「お、女を捕らえた。お、おいら、女をつ、つ……捕まえやした!」
その男の必死に訴えた声は、由己の歩みを止めた。足首を掴まれて、無理やり地獄に引き摺り込まれていた由己は、ガッと両眼を見開いた。由己にとって、ここで本能寺の仔細を知る証言者を探すのはもう半ば諦めかけていたが、突如暗闇に灯りが灯ったような気がした。
由己は振り向きざまにその男に語りかける。
「な、なんと言った! 女を捕まえたとな」
その男は檻の格子を両手でつかみ、自身の頭を打ち付けて、何かを思い出そうと躍起になっている。
「ああ……えぇっと……へい、確か、名前は……吉乃とかなんとか」
由己の目が俄然輝く。思いもよらぬ偶然だった。
「黄津じゃ。おぬし、名はなんと言う」
「へい、本庄惣右衛門と申しやす。旦那、助けてくだされ。オイラなんでも話しやす」
由己は本能寺の仔細を知る男に出会ったことに、興奮を隠しきれずにいた。この地獄ではもはや証言者など発見できぬ、と気持ちが折れかけていたからだった。
由己は松明を持った子分に右手をあげてこっちにくるよう目くばせする。
「監視殿、この本庄惣右衛門を」
その子分は、早く出せと言わんばかりに気が焦る惣右衛門を、からかうようにわざとゆっくりと門をあける。
「ふん、助かったのう」
惣右衛門に向けて嘲笑う。
鉄の錠が外されてギィと檻が開け放たれた。惣右衛門は檻から出た刹那、月夜を見上げて両手で顔を覆った。
「ああぁ……明るい……。この檻の暗闇の中で朽ちる屍体となるやも……と。ああぁ……。は、磔になるは自分やもしれんと……」
震える惣右衛門から涙だけでなく、心の声までも漏れている様であった。惣右衛門は涙を拭い、由己へ平伏するのだった。
「旦那様、なんと言ったらいいか、ありがとうごぜいやす」
「なんの、おぬしが運を手繰り寄せただけの話。さぁ、行こう。長居は無用じゃ」
「ただ、他の奴らが……」
由己は檻に背を向けて歩きはじめた。惣右衛門も立ち上がって歩き始めた。
「ここは卑しい人間臭で満ちておる。不快な場所じゃ。それにあの悪臭漂う闇の中をのぞけば、誰もが恐怖に打ちひしがれ、悲哀の情から、自然と義侠心が湧き立つのはわかる。だが戦場とは岐路に立つこと。そしてこの惨状は、勝った方が掌握する血戦の末路なのじゃ。どうすることもできぬが、おぬしはどうやら、このわしと出会う怪に通じていたようじゃの。他の奴らも袋小路ではなく、なんでもいい、どこか小径に通じておればよいのじゃがな……」
そういう由己の笑顔には、どこか悲しみが同居しているのだった。二人の背景では、鳴り止まぬ絶叫が山間にこだまするのだった。
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