第17話 本能寺襲撃 裏 (1)

脛当てで武装した何本もの足が曲がりくねる砂小路を進む。ザクザク……カラカラ……パタパタ……ザクザク、武具の擦れた音、旗が風になびく音など、軍兵の物々しい轟音が闇夜の静寂を切り裂いていた。

天正十年六月朔日深夜、明智光秀軍は備中高松で毛利家と対峙している羽柴秀吉の支援のため出兵した。丹波亀山城を出発した明智光秀は、老ノ坂峠にさし掛かっていた。

先陣の斉藤利三隊は、老ノ坂峠をさらに下った沓掛で休憩をとっていた。そこはちょうど岐路となっており、右に折れると摂津街道を通り、山崎へ抜けて西国街道を通って一路備中高松へ向かう。そして道沿いに行けば、京への入り口にあたる丹波口に出ることができた。

本庄惣右衛門は斉藤利三の家臣野々口在太郎の配下にいた。その野々口から腹ごしらえしろと命が下った。惣右衛門は休息の号令がかかると、道端にどっかりと腰をおろす。まだ備中高松までかなり遠いはずが、異例の命に小首をかしげるのだった。惣右衛門の側にいた七三は不安そうに話す。

「おい、惣右衛門、殿が重臣様集めて談合だとさ。もう出立したってえのに、今更なんじゃろうのう。今度の戦は大丈夫なんじゃろうなぁ。不安じゃのう」

「大丈夫じゃ。光秀様が、愛宕の勝軍地蔵様にお参りされたらしいぞ。天も味方してくれようぞ。それより七三も食っとけよ、野々口様の命ぞ」

兵は各々が兵糧丸なるものを懐に忍ばせていた。それは穀類や漢方薬など様々な材料を粉にし練って球状に纏めたもので、特に決まった調理法があったわけではなく、家々によって異なるものであった。

そんな兵糧丸を口にほう張りながら惣右衛門が言う。

「おい、七三、知ってっか? 今三河の徳川家康様が上京しているそうじゃぞ。あの甲州征伐の知行割り当てで、徳川様は駿河一国をあてがわれたとか。その返礼じゃそうな」

「それはそうと、甲州攻めからの帰陣は格別じゃったなぁ。徳川様は領内の街道という街道、全て道幅を広げられ、しばしば休憩所と茶屋を設けられた。茶を飲みながらの富岳は格別じゃったのぉ。わしらのような雑兵にまで応対してくださった。誰もが、ど肝を抜かれた接待ぶりじゃったわ」

これには惣右衛門も相槌を打つ。

「織田家も負けられんってことで、我ら明智様が接待役に抜擢されたのに、その直後に免ぜられた。何やら不備があったのかのう。この暑さじゃ、馳走の料理が傷んだかのう」

惣右衛門が神妙な顔つきで言う。

「オイラ、お役御免となった後、接待料理を安土城の堀へ投げ捨てたのが信長様の耳に入ったとかなんとか、噂を聞いたのう」

七三が惣右衛門に顔を近付けて声を殺しながら、

「全く経緯はわからんが、きな臭い噂を聞いたぞ」

惣右衛門は七三の方へ視線を向けながら言葉を返す。

「何? どんな噂なのじゃ」

ちょうどその時、遠くから野々口在太郎からの出発の号令が聞こえてきて、重い腰を上げるのだった。

七三は自分の兵糧丸を懐にしまいながら、出立の支度をし始めていた。

「どういう経緯でそうなったかはわからぬが、どうも信長様に足蹴にされたとかなんとか。明智様も随分とご立腹だったとか聞こえてきたがのう」

ザクザクザク、一万三千もの兵が進軍するので、武具が擦れる騒音は相当のものになっていた。

惣右衛門は進軍しながら話していたが、ふと妙なことに気がついた。

「あれ、道が違うとるのう。道沿いのこの道は京へ行く怪じゃ。我らの行く先は備中高松ではなかったかのう」

惣右衛門は岐路の右側の道を指差しながら言った。

「なぜ京へ進軍するんじゃろうか。こんな闇夜の進軍では騙し討ちかもしれんのう、惣右衛門」

と言いながら、すっきりしない色を見せる七三。

惣右衛門は前方の野々口在太郎の馬を顎で指し示す。

「状況からしてそうかもしれん。七三、あの馬の足をみよ。藁の沓を履かせてあるわ。ありゃあ、音を抑えとるんじゃ。まぁ、鳴き声までは止められんがなぁ。じゃが、誰を騙すんじゃ?」

惣右衛門は小首を傾げながら思案するが、一向にそれらしき人物を上げることができなかった。

「うむ……。上京しとる……徳川家康様か?」

惣右衛門はなくはない話だと思っていた。甲州征伐によって武田家が滅んだので、その備えとなっていた徳川家も用無しとみなし、駿河一国という餌をぶら下げて、上京してきたところを野獣のように、狙い澄まして餌食とすることは、十分にあり得ると勝手に妄想しながら歩を進めていた。

何気なく沓掛から見える景色を眺めていると、だんだんと半夜の京の景色が近付いてくるのだった。


それから数刻進軍し、掛川に差しかかったところで再び止まる。掛川は昨夜の大雨で増水していたが、難なく通ることができた。そして、野々口より再び妙な伝令が飛んだ。

「馬の藁沓を切り捨てよ。ぬしらは、わらじを足半に履きかけよ。鉄砲隊は火縄を一尺五寸に切り、両方の口に火を付け、火先を逆さまにして下げよ」

足半は通常のわらじの、かかとの部分がない、半分だけのわらじで、いくさ専用のわらじであったが、それに履き替えるということは、戦闘が近いことを意味していた。方々でブツブツと声が漏れる。

「惣右衛門、どういうことじゃ。これじゃあ、まるで戦闘態勢じゃ。どこを攻めるんじゃ。誰が敵なんじゃ。全くわからん」

ぎゃあぁぁぁぁ……

惣右衛門が何か言おうとした刹那、近く瓜畑で悲鳴がこだました。誰かが斬られたのは明らかで、しかも数十人の悲痛な断末魔が次々と聞こえてくる。周辺の雑兵が皆身構える。一気に殺伐とした空気がみなぎった。

「おいおい、誰か斬られたようじゃが、敵でもおるんか」

辺りを見渡す惣右衛門の額から冷たい汗が垂り落ちる。周辺の雑兵たちも同じように血走った目玉を剥いて見渡すが、暗闇の中ではそれらしき軍兵は見当たらず、視界に入るのは、いずれも味方の雑兵ばかりであった。それでも断末魔だけが周辺からこだました。

絶叫が響き渡る暗闇の中、見えぬ敵に焦りと不安で胸が詰まり、惣右衛門に限らず、誰もが疑心暗鬼に陥るのは当然であった。次の瞬間、殺気立った敵兵になだれ込まれるかもしれないという恐怖感で、武器を持つ手も俄かに震えて、汗が滲む。

「ど、どこじゃ……見えん……」

左右に振り返りながら、わずかな草木の揺れる音にさえ、過敏に反応してしまう。惣右衛門は恐怖に怯えた色を滲ませ、眼玉をギョロリとさせて警戒する。敵が見えない、敵はどこだと気ばかりが焦って、緊張の汗が全身から噴き出す。しかしその時、野々口の声が飛ぶ。

「おぬしらには関係ない。準備を進めよ。これより私語は慎め。音を立てぬよう進軍せよ」

惣右衛門ほか雑兵たちは、野々口の下知を聞いた刹那、張り詰めていた空気が弛む。そして薄らと口の端に笑みを浮かべた。

「やはり、徳川様じゃ。騙し討ちしようとするつもりじゃ。さっきの悲鳴は我ら軍を見られたから口封じに殺したんじゃ」

惣右衛門の声を殺した声に七三は黙って頷いた。

野々口隊が属する先陣の斎藤利三は、丹波口から洛中へ侵入し、油小路通りを北上して四条坊門西洞院にある本能寺を目指して進軍した。

惣右衛門は通りに野良犬が殺害されている様を目にする。七三を突いて犬の死骸に顎で指し示す。

「どうやら露払いの跡らしいの……」

明らかに斬られた跡が残っていた。七三の目は恐怖に怯えた色をみせる。

しばらく通りを進軍していると、後方から黒母衣衆二名を連れた騎馬武者が惣右衛門の横を通り過ぎ、先導した。惣右衛門はその騎馬武者が、斎藤利三の御子息利宗様だと知っていた。

京の街並みはまだ寝静まっていたが、ちらほら炊煙が立ち上がっている家も確認できた。利宗の後を追ってその京の町を進軍していた惣右衛門は、しばらくした後、深い堀と土塁に囲まれた荘厳な寺院に到着していた。ただ、寺院は竹藪の群生に囲まれていて、中を窺い知ることはできないようになっていた。

徐々に東の空に朝日が差しはじめていた。

————どうやら目的地はここらしい!

と惣右衛門は気付いた。通常寺院では堀や土塁などの防壁はない。そういう意味で大分高貴な武将、あの徳川家康様が宿しているのでは? と惣右衛門はそれらを眺めながら思いを巡らす。寺院の南端に到達した惣右衛門は、東堀の方へ旋回した。不意に、帷子姿の侍の一人と鉢合わせた。その侍は、軍隊が目の前に現れることが予想外だったらしく、目を丸くして、あたふたした様子で取り乱す。

「な、なんじゃ。どういうことじゃ。と、止まれ。何用か。止まれ」

騒ぎ始めた侍に向け、野々口は「斬れ」と指示を出す。

惣右衛門と七三他数名が奇声をあげて取り囲む。鈍い剣戟(けんげき)の声が周囲に響き、ちょっとした騒動になるが、惣右衛門が早々に侍の左脇腹を突き抜いた。

「ぎ、ぎゃあ……」

苦痛に悶絶しているところに馬乗りになり、惣右衛門は、刀の剣先に手を当てて、首を切り取った。うつろ目首の髷を鷲掴みにして、自身の顔の前まで持ち上げた。そしてそれを眺めながら早々に手柄をあげたことに心踊り、ニンマリと怪しい笑みを浮かべた。惣右衛門は首の髷を解いたその蓬髪で自身の右腰紐にくくりつけた。

野々口隊は寺院の東門に到達した。東門の柱には毛筆で「本能寺」と書かれていた。惣右衛門は門を見てギョッとする。なんと施錠もされておらず、守衛も配置されておらず、簡単に門はギィと不気味な音を響かせて開いたのだ。

中には誰一人おらず、黒い野良猫が一匹横切ろうとしたが、こちらの物音に気付いて足を止めて惣右衛門たちを見ていた。その黒猫はやがて首をすくめて、スゥーと足音もなく逃げ去った。

本能寺の本堂は北から南に向かって正面を向いており、東門から入った惣右衛門は右側に本堂が見えた。明智軍が包囲している以外、キリキリ……ギィギィ……など虫の音が包み込む。荘厳な空気に囲まれた本能寺は意外にも閑散としていた。それも、不自然に思えるほど静寂であった。

惣右衛門は調子抜けしていた。徳川家康ほどの大名ならば備えは万全で抜刀した僧兵か、侍が怒涛のごとく押し寄せるかとやや怖気づきつつも、身構えていたからである。惣右衛門の後方から野々口が近付き、声を殺して下知する。

「おい、その腰の首級は打ち捨てろ。利三様よりの御命令じゃ」

「ははっ」

惣右衛門は、本堂下の基壇と本堂の浜縁回廊の間の隙間に、投げ入れたのだった。しかし、生首が転がる音はするものの、それ以上は何もなかった。

惣右衛門は正面から本堂へ上がり、障子をそっと開けて中を覗く。そこは蚊帳がつってあるだけで中には誰もおらず、がらんとしていた。徳川家康一行は既に察知して逃げたのではないかと疑惑が芽生えていた。念のため警戒は怠らず、一旦外へ出て本堂裏の右奥へ進む。すると目の前に主殿があり、さらに右脇奥にこの寺院の厨房の屋舎があった。惣右衛門は奥の厨房に視線を移した。すると厨房と主殿をつなぐ渡り廊下に人影が目に入り、咄嗟に身を屈める。

よく見ると下げ髪の白い寝着を着た女中だった。惣右衛門は走り寄り、槍を向けて声を落とす。

「大人しくしろ! 動くな!」

女は一瞬にして甲冑に身を包む雑兵に取り囲まれ、あまりの恐怖に声にならない悲鳴をあげ、死から身を隠すように、渡り廊下の柱の後ろに身を潜ませた。

「ど、どうかお助け下さいまし。お命だけは……。う、上様は白い着物をお召しになっております」

と泣きすがら、へなへなと力なく座り込んでしまう。

惣右衛門は周囲に静止するような身振りを見せて構えを解く。

「名はなんと言う」

恐怖で震える女中は泣きながら答える。

「き、黄津と申します」

「七三、この女子を利三様のところへ」

「おう、承知」

七三は返事すると黄津を連れて斎藤利三に引き渡しに行った。

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