第18話 本能寺襲撃 裏 (2)
惣右衛門は、それにしても一向に侍が現れないことに業を煮やし、石垣積に建つ主殿の浜縁回廊につながる渡り廊下によじ登った。警戒しながら主殿に近付く。回廊の軋みが、主殿に潜んでいるであろう敵に、自分達が接近していることを知らせてしまっていた。惣右衛門に緊張が走る。なぜなら惣右衛門は主殿の障子に影を落としていたからだった。いつ槍や刀で障子越しに斬りかかられてもおかしくなかった。惣右衛門は慎重に障子に手をかけてゆっくりと開いて中を覗く。しかし、やはりそこも誰もおらず閑散とするばかりだった。助かりはしたが、やはりここまで誰もいないのはどういうことなのか理解できなかった。大方逃げられたという考えに傾きつつ、警戒心にも隙間ができ始めていた。
その主殿には奥の間に通じる廊下があり、本堂の裏の左側に位置する常の間に通じていた。そこで惣右衛門は、ようやく何かしらの気配を察知していた。その常の間へ通じる方の奥から主殿の方へ徐々に足音が近付いてくる。それも一人ではなかった。惣右衛門たちは慌てて物陰に身を隠して息を殺す。足音がすぐそばまで近付いてくる。はやる気持ちを抑えて武器の柄を握る手に力を込める。するとやはり奥の間から主殿へ三人の侍が抜刀して鞘も持たずにやってきた。
その侍たちは、その時、既に肩衣に袴の左右の裾をつまんで、帯に挟んだ股立ちの出立であった。しかし、身を隠していた惣右衛門たちの存在に気付かなかった三人が知らずに通り過ぎる。
惣右衛門たちは後ろから一斉に駆け寄り、振り向きざまにバッサリと斬り捨てた。
「ギャアー」
止めに突き刺した刃が貫通する。そして再び馬乗りして、剣先に手をあてて、首を斬り落とした。他の二人も早々に討ち取られていた。首級から顔を上げると、何やら焦げ臭い匂いが鼻につく。
「おめえら、何か匂わねえか」
惣右衛門は声をかける。すると仲間の雑兵が奥の間を指し、慌てた様子で声をあげる。
「おい、あそこ、煙じゃ」
惣右衛門はギョッとして煙の方に目をやる。主殿の奥の常の間あたりから黒煙がもうもうと立ち込めていたのだ。手の甲で鼻を抑えながら、急いで主殿を後にした惣右衛門は東門付近から燃え盛る本能寺を眺めていた。
ちょうどその頃には、他の部隊も侵入しており、本能寺は餌に群がる軍隊蟻のような明智兵でごった返しとなっていた。
本堂には火矢が射られ、厩に控えていた馬廻衆との小競り合いがあり、剣戟音や、奇声があちらこちらで乱れ飛ぶ戦場と化していた。
また雑兵たちは屍体をあさり、金目のものを強奪する救い難い浅ましさを露呈する。いまや法華宗本門流の大本山という威厳は見る影もなく、皮肉にも仏教が説く人間の三毒、憎悪、強欲、そして愚かさが本能寺を焼き尽くしていたのである。
*
夜泣き山から戻った由己は、山賊の隠れ家に監禁されていた本庄惣右衛門を買い取り、勝龍寺城下の宿まで戻っていた。勝龍寺城まで戻った時にはすっかり朝ぼらけ。さすがに疲労困憊の二人は宿に着くなり、板間に倒れると、そのまま、ウトウトと眠りこけてしまった。そして気がつけば夕暮れ時となっていたのだ。
由己は備忘録帳を取り出し、書き留めた本能寺について読み返しては、何やらサラサラと筆を走らせていた。
惣右衛門は、眠ぼけ眼をショボショボさせながら、まだ夢を見ているかのように宿の部屋を見渡していた。まだ惣右衛門は現実を信じられずにいる様だった。
「おう、惣右衛門、起きたか。おはよう、と言うても、もう夕暮れじゃが。おぬしもだいぶ疲れていたようじゃのう」
惣右衛門は由己のような身分高き人物と雑魚寝してしまったことに、今更ながら気がつき、急いで平伏するのだった。
「だ、旦那様。まこと、大それたことを。お許しを……」
しかし、言葉とは裏腹に笑みがこぼれていた。惣右衛門は普通の宿に戻れたことに内心浮き立っていた。
由己は生きることに心踊るそんな惣右衛門を見ると、自然とほころぶのだった。
「よいよい。そんな畏まるほどの宿でもないしのう」
由己と惣右衛門は笑い出した。ただ、囲炉裏を中央に備えた板間の部屋でお世辞にも綺麗な造りではなかったからだった。
「それよりおぬしのことを聞かせてくれ。長らく明智家中にいたのか」
「へい、斎藤利三様が家臣野々口在太郎様の配下で、本能寺へ従軍しやした」
「信忠様が立て篭もる二条城が落ちた後は?」
「へい、利三様より落武者狩りの命がありやして、京中が血まみれになりやした。それで一旦解散みたいになっとんで」
「ほう、して其方はそのまま京へおったのか?」
「へい、首級二つ挙げて懐も余裕があって遊んどったんで。それがその後、しばらくして備中の羽柴様が急に山崎に現れたとかで、召集がかかって戦になりやして、斉藤利三隊で先陣でした。天王山に羽柴方の隊が向かったとかで、迎え撃とうと向かった矢先に山間に誘われて、山賊に囲まれてしまいまして、野々口様は山賊に呆気なく首を取られやした」
惣右衛門の脳裏に苦い記憶がよぎる。
苦悩で曇る惣右衛門に由己は遮るように言う。
「本能寺へ出陣するあたりから、もそっと仔細を話してくれんか」
惣右衛門は、夜半過ぎに丹波亀山城を出発したこと、当初備中高松の羽柴の援軍に向かうところだったこと、そして本能寺へは難なく侵入できたことなど話す。
「本能寺に一番乗りしたがは我ら野々口隊で。他どの隊もおりませなんだ」
由己は驚きを隠せずにいた。
「な、なんと東門が開いていたとな。それに本堂にも誰もいなかったと……」
由己は腕組みをしながら思案を巡らす。通常、軍兵が進軍してくると分かれば、固く閉じるはず。しかし、そうではなかった。多勢に無勢、流石に一枚岩とはいかなかったか。
「門が開いていたとなると……中から誰か出た……いや逃げた……か」
すかさず、惣右衛門が口を挟む。
「へい。あり得やす。信長様のような大大名のご滞在にしては、誰もおりませなんだ。わしらも既に逃げられたかと仲間内で話しとりやした」
由己は茶屋で聞いていた本能寺襲撃の様子と、まるで違っていた事に戸惑いを隠せずにいた。これでは死闘どころか、信長を見限って家臣が本能寺から逃げ出した感さえあったからだ。
「それじゃあ、戦にならず手柄の立てようがないのう。そうして敵を探しているところであの女を捕らえたって事じゃなぁ?」
「へい、本堂に侵入して敵を探していた折、例の女を台盤所で捕らえたんで。その女、『殿は白い着物をお召しになっています』っちゅうて、わしら殿とは徳川家康様のことじゃと……てっきり」
由己は身を乗り出して
「ほほう、本能寺にご滞在なのは徳川様じゃと野々口殿が大ぼら吹いたと?」
惣右衛門は、それは違うと言わんばかりに左手を振りながら
「いえいえ、誰を襲うかは野々口様もご存知なかったようで。わしら、勝手に三河から上京中の徳川家康様を襲うものと思うとっただけで。まぁ、わしらのような雑兵はどちらでも同じなんで。実は信長様も徳川様も顔知らんもんで」
惣右衛門は苦笑いを浮かべる。
確かに雑兵にとって徳川様も信長様も雲の上の存在で、そう滅多に顔を拝めるものではない。由己はどちらにしろ同じという惣右衛門の言葉に納得感があって
「そうじゃろうなあ」
と言葉が漏れた。
「ところで、おぬしが本堂へ侵入した時、蚊帳が吊ってあるばかりで、中には誰もおらなんだのじゃなぁ」
「へい。その通りでやす。すっからかんで」
しばらく考え込んで、由己は備忘録帳に筆を走らせながらつぶやく。
「ということは……本能寺が包囲される以前に、信長様は既に明智光秀の軍兵が迫っていることを察知しておった……。そういえばおぬし、遭遇した侍三名は主殿のさらに奥の間から現れたと申したな」
由己の神妙な面持ちにつられて惣右衛門も重々しい面で顎をさすりながら答えた。
「へい、ちなみに、その三名は迎え撃たんと、既に戦支度が整っておりやしたなぁ……。それにその奥の間から煙がもうもうとあがっとりやした。それゆえ、危ないと思って逃げたんで」
由己の顔が腑に落ちた風な色に染まった。
「三侍の出立ちから察するに、取り囲まれてから気がついた線は、消えたということじゃ。考えてもみよ、女中の黄津は、信長様が連れ出されるのを見た後、其方に捕らえられたようじゃのう。本能寺に一番乗りした其方たちに。信長様とその御側衆は、迎え撃つか否か、考える刻がかなりあったことは明白じゃわ。それに黒煙があがった主殿の奥の間とはすなわち、信長様のおわす常の間じゃ。大殿の御側衆が側を離れたとあれば、既に事が終わった後じゃったとみてよいのではないか……」
今度は惣右衛門が小首を傾げる。
「旦那様、それってどういう意味でございやすか?」
由己は顎を撫でながら
「つまりは、その折、すでに信長様は切腹されていたという事じゃ」
「な、な、なんですと……」
惣右衛門は驚愕のあまり、後ろにすっ転ぶかのような勢いでのけぞった。
「信長様は長年戦場に身を置いておられた。いつ何刻も、いち早く知ることの大事さをご存知じゃ。当然、京に軍兵が迫りつつあることを、察知していたのじゃ。じゃが手元の兵はおらん。裸同然じゃ。しかし、合点が行かぬこともある。本能寺には幾人もの屍体があった。惣右衛門、おぬしの話では、ほぼ小競り合いくらいで、大きな戦はなかったとみえるが……」
「へい、確かにそうで。ただ本堂が燃え上がったあたりから、本能寺に入れず、京洛中に宿をとっていた他の織田方の兵が、乗り込んできたんで。追腹を斬った家臣が多くいたようで」
「ふむう。なるほど。そういうことじゃったか。京では信長様が明智軍相手にバッタバッタと斬り倒す最後の死闘をされたとか、ささやかれておるが全くそうではなく、早々にお腹を召したのじゃろうのう」
惣右衛門は、信長が切腹したくだりに、やや合点が行かぬようで顔色を曇らせる。
「————されど旦那様、それでは信長様が切腹するのが早すぎるのでは……? 実は明智光秀様が信長様に軍を見てもらうだけだったってことも、でなければ、何か話があって備中高松へ出陣する途中に立ち寄っただけ、とか取り囲む前ならあり得たのでは……。あまりにも早すぎるような……気が……」
由己は再び腕を組み、目を閉じて眉間に皺(しわ)をギュッと寄せる。明智光秀が信長に謁見のために京へ立ち寄ったのではない、首を取るのに兵を向けた、と信長はなぜ確信できたのか。通常ならそれほど早急に自決の判断はできなかったはず。しかし、事実として信長の判断は正しかった。なぜそのように決断できたのか、由己は結論を出せずにいた。
「確かに。されどじゃ、結果論じゃが、信長様の第六感はズバリ的中じゃった。それはおそらく、信長様と光秀の間で、数日間の間に何かあったに違いないのじゃ。何かはわからんが、とにかく、信長様はあの夜、下人か家臣からの知らせで、軍兵が近付きつつあることを知った。それが明智光秀の軍だということもな。その刹那、全てを悟ったのじゃ。京の出入り口である、丹波・山科・鳥羽・鞍馬の要害は、既に抑えられて逃げ道はないとな。『狡猾な明智光秀』が悟らせたんじゃ。それが証拠に、信忠殿も京から脱出することを断念されとる。実態はそうではなかったのじゃ。聞いたところによると、信長様の実弟、織田長益(後の有楽斎)殿はこの時、京にいたが逃げ失せとるしのう。まっこと、恐ろしき御仁じゃ、明智光秀とは!」
「その数日内にあったこととは一体……。気になりますなぁ」
そう呟くと、惣右衛門は何か思い出したらしく、
「あ、そういえば、確かに信長様が明智様を足蹴にしたとかなんとか噂を聞きやした。明智様はたいそうご立腹だったそうで」
由己の顔がほころぶ。
「ハッハッハッ、興味深い話じゃが、それではやや弱いのう。おそらく、足蹴にされてない家臣の方が少なかったんじゃないかのう。長年仕えた信長様の寝首を狙ったわけじゃから、よっぽどの理由があったに違いない。そこから醜悪な殺意が生まれたのじゃ、おそらくな。じゃが、煙のないところになんとやらで、何かはやはり、あったようじゃのう」
由己はふと、夜泣きの山へ行く道中、妙なことに気がついたことを思い出した。
「惣右衛門や。今日はもう更けた。明日からでよいのじゃが、ひとつ頼まれてくれんか」
惣右衛門は由己に助けてもらった恩返しに、何か働けないか思っていたようで、由己の言葉に俄然やる気がみなぎる様で、眼を輝かせる。惣右衛門の顔がほころび、いくらか声が高まる。
「へい。なんなりとお申し付けを」
「これが終われば其方を解放する。しっかり、調べてくれんかのう」
惣右衛門の由己を見つめる眼は、涙で溢れていた。
「旦那様、まこと、ありがたき幸せ。この御恩、生涯忘れは致しませぬ」
由己は何やら惣右衛門に頼み事をすると銭の入った袋を渡した。二人は話しに夢中だったが既に夜半過ぎとなっていた。
惣右衛門は由己が横になったのを見計らって灯りに息を吹きかける。灯芯からゆっくりと煙がゆらめいていた。闇夜があたりを覆っていた。寝顔の口の端に、惣右衛門は笑みを浮かべていた。おそらく、これまでとは違って、夜明けが待つ晴朗な夜であったからに違いない。
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