第19話 落武者小五郎(1)

本能寺で信長が横死して四ヶ月後、京の大徳寺にて羽柴秀吉が執り行った信長の葬儀は絢爛豪華なもので、京の民衆の目を楽しませ、度肝を抜いた。それに合わせて秀吉から依頼された本能寺の事変にまつわる軍記物語、『惟任退治記』を秀吉は大衆に語り聞かせた。

それからさらに二ヶ月後の天正十一年正月、信長逝去の混乱が落ち着きを取り戻しつつあり、大仕事を終えた由己は、一人ぶらりと中山道をそぞろ歩き、美濃に入っていた。由己は播磨に戻るつもりではいたが、どうしても気になることがあった。それは、本当に京の栗田口に晒された生首は、明智光秀のものなのか、という疑惑だった。そもそも秀吉自身の口から、光秀の首かどうか疑わしい旨を聞かされた由己は、著書の軍記物語にある細工を施していたのだった。その甲斐あってか、世間的には羽柴秀吉が信長の仇を討ったことで収まり、次の天下人は羽柴秀吉かと、まんまと世論を扇動することに成功していた。しかし、内実は明智光秀が生存している可能性が依然あった。

あれから時が経ち、明智光秀の謀反も町衆の話題にのぼることも無くなり、関心は薄れていた。由己がこの時期に動いたのは、頭を甲羅にすっこめていた亀でも、もうそろそろ警戒を解くのではないか、と考えたからだった。そして、生存しているとすれば美濃南部あたりではないかと勘繰り、中山道を通って美濃に行き着いていたのだった。

由己は中山道の途中、加納という地で情報を集めていた。そこにはかつて、加納城があった。今は廃城となっていたが、数十年前は土岐頼芸の家臣、斎藤利永の居城となっていた。明智光秀は土岐氏の流れを組む出自であったことを、由己は掴んでいたので、逃げ込む先としては、故郷の美濃南部にあたるこの辺りだと踏んだからだった。

そして、その土地の農民から由己は、面白い話を聞いていた。田口城を居城にしていた長屋景重は、岐阜南部の板取という地を所領としていた。が、ある戦乱に巻き込まれて、田口城は焼け落ち、その長屋家の一族郎党は野に下って板取の南、加納の北部あたりの山中に、逃げ込み集落を形成しているとか噂を聞いたのである。

由己が光秀の潜伏先では? と睨んだ理由は、新参者が突如よその村に住み着くと目立つが、集落全体が新たに形成されたものだったら逃げ込みやすいのではないか、と思ったからだった。

そういった経緯があって由己は加納からさらに田舎怪を北上していたのだった。由己は川に沿ったつづら折の山怪(やまみち)を登っていた。時折川の冷たい水で喉を潤しながら進んでいった。

ところで旅の道中、以前の由己とは少し違うことがあった。軍記物語を秀吉に報告して以来、ひどく背後を気にするようになったのだ。勘違いかも知れないが、どこからか、景色の端や物陰からか、背中に刺さる冷たい視線を感じるのである。なので、振り返ってはキョロキョロと、木陰や物陰を凝視して監視されていないかを確かめるのだった。だが、そこに見えるものは旅装の人や、ただの草木、そして何もない山岳風景だった。どこにも怪しい人影を捉えることはなかった。そして目を閉じ、眉間に皺を寄せ、微かに身震いするのだった。由己は『惟任退治記』を献上した秀吉との面会後、癒えない傷を心に負っていた。そして酷く疑心暗鬼に陥り、見えない視線に苦しめられていた。

そんな旅を続けていると、山間にちらほらと民家が立ち並ぶ集落に遭遇するのだった。民家を眺めると、古くからの集落ではなく、まだ材木が新しいことはすぐに見てとれた。怪にはその集落の住人であろう人の通りも、みかけるようになった。

由己はしばらく、その集落を歩いていると、奇妙な光景が目に入った。一人の童が水を汲んだ木桶抱えて由己の先を歩いているのだが、周囲の村人は、彼を横目でチラ見しながら怪を開けているのだ。端的に言えば、避けているように見えるのだった。

その童の出立ちは薄汚れたボロの小袖で、他の村人と変わったところなどなく、由己は後ろ姿しか見れはしなかったが、とりわけその童に何かあるようには思えなかった。だからこそ、由己には不思議な光景に見えたのだった。それも一人や二人ではなく、その童に遭遇した村人は皆避けているようだった。

「もし、お侍様」

そばにあった茶屋の主人が由己に声をかけてきた。

「わしのことかね」

「へい、長旅でお疲れでしょう。お茶でもいかがです」

その男はにこやかに話す。

「そうさなぁ、ちょっと休むとするかのう」

「へい、いらっしゃいまし。すぐにお茶を用意しますんで」

由己は腰を落ち着かせると例のごとく、今来た道をギョロリと凝視するのだった。ただ、その通りには、村人や童の歩いていく姿のみで、怪しい影を捉えることはなかった。

「お侍様、どうかなすったんで」

不思議に見えた主人は、背後を警戒する由己に声をかけた。

「いや、なんでもない。茶を頼む。少々疲れただけじゃ。ところで主人、この辺りの家々は随分新しいのう」

由己は慌てて話題を変える。

「へい、数ヶ月前にできた集落で。西光村と勝手に呼んどるんで。この村をさらに奥に行くと、寺がありやして。既に廃寺になっとるんですが、そこが西光寺と言いやして、そこから村の名前をもらっていまして。ところでお侍様はこんな山奥まで何の御用で?」

主人は不審な表情を隠しながらそれとなく、探りを入れる。

「あ、わしか、なあに、この辺りで昔から続く無病息災・五穀豊穣を願って祭りがあるとか聞いてのう。わしゃ物書きでの、近々その祭りがあるとかで、見に来たのじゃ」

由己は咄嗟にうそぶいた。長屋景重の一族郎党が板取から落ち延びてきた集落だったので、由己のような余所者が光秀潜伏の調査に来たなどとわかれば、当然警戒されるだろうと思えたからだった。

「あぁ、祭りを見に……。それはそれは。元々家屋で執り行うんですが、今年は新しい集落での祭りで、あまり雪も降らず天気もええですから、野外で、皆で集ってやろうということで準備しておりやして……。どうぞ」

主人の表情が和らぐ。そして、楽しそうに話しながらお茶を由己に差し出した。

「猿田毘古大神に扮した木彫りの赤鬼が、祭囃子に合わせて謳い踊り、この大地に新しい生命力と活力を吹き込むんで。村人は笛、太鼓や鉦(しょう)の音に合わせて夜通し踊るんで……」

主人が祭りの話をしている際、ふと由己は通りに目をやった。すると十歳以上くらいの童が二人茶屋の前を通りかかった。一人は見るからにがっしりした図体で、悪たれ小僧なる風采で、もう一人は小柄な童だった。その悪童が何やら大声で憎まれ口を叩く。

「あやつ、何言っても無視しやがるし、何も答えん。そのくせ、あの周りを見下したような態度は許せん。何奴じゃ、あの落武者小五郎は……。」

悪童は持っていた竹の棒を、ブンブン振り回して怒りを露わにする。

「……ヒョロッとしてるくせに、めっぽう相撲は強かったのう。オラでも少々手こずったわ」

悪態はつくものの、その小五郎には、何か興味を惹かれているらしかった。

「そこの小僧や、ちょっとこっちへ来んか?」

由己は茶屋の縁台に腰掛けながら、その悪童たちを手招きしながら呼んだ。

悪童は竹の棒を肩に担ぎながら、誰だと言わんばかりの態度で近付いてくる。

「何用じゃ?」

ぶっきらぼうに言葉を発す。

「ああ、そなたが話しておった落武者の小五郎とは何者じゃ?」

由己は穏やかに話し掛けた。

「あ、小五郎のことか。あやつ、ちょっと前か、突然、西光寺の妖怪婆の妖術で、現れたやつなんじゃ」

由己は眉唾もんだと思いつつも、妖怪婆とはまた、心惹かれる言葉に出会ったものと、ついつい前のめりになる。

「おお、なんと、妖怪ときたか」

悪童は由己のような大人が話に乗ってきたので嬉しくなったようで、

「そうじゃ、妖怪じゃ。オラは絶対、その婆の妖術じゃと睨んどう。その小僧は時折、水を汲みに村の近くまで来るんじゃが、誰とも話そうとせん。むしゃくしゃしたから、『お前のおとうは、どうせ落武者じゃろ!』ってからかったら、抱えていた木桶を放り投げて向かってきたんじゃ。まぁ、体格の割には強かったが、逆に放り投げてやったわ」

悪童は、自分が投げ飛ばしたことを満足げに話す。隣にいる小柄な童も相槌を打って、悪童に調子を合わせていた。

由己はもちろん、妖術などといった童の妖怪話を信じたわけではなかったが、妖怪婆の妖術で出現したという童に興味を惹かれた。

「そういえば……小僧」

由己が悪童に話しかけようとした刹那、茶屋の主人が団子を三串持ってきた。そして話を遮るように、

「あ、お侍様、こちらの団子をどうぞ。これ、小僧や、団子やる。それ食って往ね」

「おお、新八のお爺、食ってええんか!」

小僧たちは弾けた笑顔で団子に群がり、口に頬張りながら去っていく。由己はやや呆気に取られていた。

「申しわけござりませぬ。お疲れのところ、村の小僧が騒がしくて……」

「いやいや、全く。」

由己は平然を装ったが、明らかに会話を遮った主人の態度に違和感を覚えていた。

「ところでご主人、さっきの童が言っていた妖怪婆とは誰のことじゃ?」

主人は団子の膳を片付けなら、顔をしかめていた。あまり外部の人間である由己には話したくなかったようで、しどろもどろになりながらも、悪童が言ってしまったために、渋々話しているといった様子だった。

「へ、へい、わしらがここらで集うずっと以前から西光寺の林の中に庵がありまして、そこに住んでいる老婆のことで。もうかなりの高齢で、光も失っているようで、以前は世話人のおヤスという女がいたんですが、崖に足を取られて、それから村の者が交代で飯を運んでいるんで。そしたら、さっきの童が言うように、数ヶ月前から見知らぬ童が現れて老婆の世話をしながら一緒にその庵で生活しているようで」

「ほう、そのような老婆が……。してその童とは何者ぞ?」

主人は小首を傾げながら、

「わしらも何もわからんで困っとるんで。ただ名は小五郎と。それ以外は何も言わぬようで。それにわしらのようなボロを身にまとって、さっきの童のように手足、顔も泥にまみれてはいるようだが、わしが見るに、そこらの童とは違うようで。うまく言えませぬがありゃあ、何か事情がありそうな……、わしらもそんな噂をしとるくらいで。どこか得体の知れんところがあって、誰も相手にせんどころか、避けておるんで。厄介事はわしらもたくさんで……」

数ヶ月前に田口城を攻め落とされ、その傷もいえぬまま、あらたな集落で新しい門出を決意した矢先だっただけに、主人が厄介事を避けようとしたのは無理もなかった。

由己は主人の想いとは裏腹に光秀の動向を探るべく、

「謎の童のみか、見慣れぬ侍なんかおらなんだか?」

主人は首を振りながら、

「いやぁ、その童だけのようで」

由己はやや調子抜けしていた。ここへ来て早速、光秀潜伏の手がかりに当たったかと淡い期待をしていたがどうやら違ったようだ。ただ、それとは別に、童がなぜ突如現れたのか、その奇妙な謎に興味を惹かれた。どうやら謎の童は先ほど出会った奇妙な光景の童に違いない、と由己は思っていた。突如童が現れるには二つしか方法はないと由己は考えていた。一つは、元々親類縁者にいたのを連れてこられた、二つ目は、人さらいからその妖怪婆が買い受けたか。この西光村ができる前までは老婆にとっておヤスが唯一の世話人だったとか。高齢の老人だけ残して身内が移住するとは考えにくい。おそらくはおヤスが最後の身内だったと考えるのが妥当と由己は思っていた。その老婆が妖怪でない限り、村々を歩きながら人を売り歩く人さらいから買い受けた以外考えられなかった。既に光を失った老婆が一人で生活するのは無理がある。生きるため、自身の眼となる童を買い受けるのはあり得ない話ではない。

ただ、由己の脳裏にはあのおぞましい光景が蘇っていた。それは本能寺の仔細を追いかけ、人さらいの山賊の隠れ家で見た、あの惨状だ。由己が見たものは戦で捕虜となった雑兵たちであったが、女子供をさらい村々へ売り歩く闇商人が、本能寺での信長横死で世が乱れ、無遠慮に横行しているのを知っていた。

————老婆の事情はわからないではないが、それでもさらわれた童はどうなる?

親は殺されたのか、それとも無理やり引き離されたかわからないが、日常を無理やり引き剥がされ、見知らぬ土地へ売られていく。童の胸が張り裂ける思いでいるのは当然だろうと、由己にやりきれない思いが湧く。

あの折、偶然から本庄惣右衛門を救ったが、彼以外はそのまま放置せざるを得なかったことの後悔が、由己にいま再び義侠心を沸々と湧き起こしていた。

血も涙もない悪鬼が襲い掛かる。あちらこちらで絶叫や悲鳴が響き、ぬらぬらと強欲が巻きつく刀が振り下ろされ、それまで笑顔が咲いていた顔が白目剥く屍体に変わり果てた。血溜まりに倒れる首のない両親の屍体のそばで、泣き叫ぶ童を連れ去っていく、由己にはそんな悲劇が頭をよぎっていた。

由己はもう居ても立っても居られなくなっていた。しかし、いつの間にか風冴(かぜさ)ゆる夕暮れの刻。茶の温かさが身に沁みていた。

「この辺りで宿はあるかのう?」

主人は笑顔で答える。

「雑魚寝くらいしかできやせんが、それでもよければ……」

「嗚呼、かたじけない。しからば厄介になるわい」

由己は明日朝、謎の童を救うべく西光寺へ足を運ぼうと決意していた。

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