第20話 落武者小五郎(2)

 翌朝、由己はまだ通りに誰もいないことを確かめて宿を出た。そして村を通り抜けて朝霜が降りる山怪を行く。薮の中の沢をわたり、わらじを濡らしながら、けもの怪を登っていく。木々の合間からみえる風景は、すっかり霧に覆われた山間の景色で、かなり登ってきたことが窺い知れた。そして休憩の度に、何の気なく背後を警戒する視線を送っていたのだった。

そうしていると西光寺の建造物が現れた。既に廃寺になって久しく、主人を失った寺院は身の丈もあろうかと思えるくらいの群生した草木に覆われ、腐敗した木材が、ところどころ折れて崩落していた。寺は繁栄の面影もないほど朽ち果てて、自然に飲み込まれようとしていた。

由己はその西光寺の境内の林に、人が一人通れるかくらいの小径があるのに気がついた。他は朽ち果ててはいたが、その小径だけ、まだ人の生活の気配が失われてはいなかった。その小径の両側の木々が空を多い、秘密の回廊の様形を呈していた。由己はその小径を進んでいくと、今にも崩れ落ちそうな庵に遭遇した。

藁葺(わらぶき)屋根の庵は四畳ほどの狭いもので、二段ほどの石積みの上に建てられたもので、黄色い土壁は既に老朽化しており、ところどころ崩れて、中の竹小舞が露出しているのだった。既に陽が高く登っており、板戸は開け放たれて、その濡れ縁には背が曲がった老婆が置物のように座っていた。

ちっちゃな顔に金魚が向かい合わせで泳いでいるような目、それに鼻とおちょぼ口がちょこんとあり、その肌は老体にもかかわらず、柔肌で頬にポッと紅葉が色づいていた。

「小五郎や、帰ってきたんけぇ」

回廊を抜けて庵の前に現れた由己の気配に気付いて、老婆は声をかけてきた。その老婆を見た時、自身の考えが邪推だったことを悟った。由己は老婆の表情を見て、こんな穏やかな顔をする尼が、人さらいから買い取ることはないと、あったとしても、それはおそらく人助けの境地からだろうと、いや、そうに違いないと思えるのだった。

「いや、わしは小五郎では。大村由己と申す」

老婆は、小五郎以外では村人以外の訪問が長らくなかったようで、何事かと困惑する。

「はぁ、このような山奥までわざわざお越しくださり……。牧蓮尼と申します。既に光を失い、何もおもてなしできない無礼をお許しくだされ」

「尼、なんのお構いもなく。ただ少々山登りして疲れ申した。水を頂いてもよいか?」

牧蓮尼はおもむろに笑いながら、

「どうぞ。小五郎がこの濡れ縁の端に木桶を置いてくれとるかと……」

由己は尼の指す方を見て桶を見つける。

「ああ、これですな」

由己は茶碗がないかと目線をキョロキョロさせていると、桶の後ろに隠すように置かれた茶碗を発見する。かなり使い古された碗ではあったが、手ですくうよりはマシかと思い、桶から水をすくうと、その水で喉を潤した。

「ああ、蘇った。なんと美味しい水じゃ」

つい言葉が漏れる。

「ほっほっほっ、ここまでは結構な山路。身体を動かした後は水が染みわたりましょう」

由己と尼は笑顔を交わす。

「尼は長生きで元気ですな」

牧蓮尼は目端を下げて、

「ほっほっほっ、空気がよいせいか、仏様がお忘れになっておいでか、なかなかお迎えが来ぬようで。もう八十を超えてしまい……。ほっほっ。ところで由己様、この山奥まで足をお運びになられたご要の趣は。この尼にできることであれば何なりと」

由己は言葉に詰まってしまった。勝手な邪推で義侠心に踊らされ、こんなところまで、登ってくるとは、骨折り損の馬鹿丸出しで、いたたまれない気持ちになっていた。だが何も話さないわけにはいかず、意を決して牧蓮尼に尋ねてみた。

「尼、実はこちらに突如現れたという童を訪ねて参った。わしは軍記物語を書く物書きじゃ。昨年京本能寺で起きた、明智光秀が信長様を討った事変を書いたのじゃが、その際、人さらいで地獄を彷徨う人を多く見てのう。わしは何もできなかったのじゃが、一人だけ用有って助けたのじゃ。その他大勢は、見殺しにするほかなくてのう。正直心残りじゃった。ここの集落へは、明智光秀の行方を追ってきたのじゃが、その童のことが気になってなあ。尼が人さらいから買い取った童なら、元の家族のもとへ返してやりたい、とそう思うて訪ねたのじゃ」

由己の話を聞いている最中、牧蓮尼は笑顔そのままに一切顔色を変えることはなかった。

そして消えそうな、か細い声で語りかける。

「既に光を失い、貪欲の成れの果てなる地獄を見ずに済むは、幸いといったところのようで……。由己様は大変なものをお目にされたようですなぁ。大した学もない尼の言葉と思うて笑ってお聞き流しくだされ……。運命には人によってもたらされるものと、自ら切り開くものがあると存じます。由己様によってもたらされた運命を歩めたその人もまた、そういう運命、そうならなかった人もその人の運命かと……。由己様はお優しいお心をお持ちで。しかしながら、小五郎は人さらいから買い受けたのではござりませぬ。わけあってお話はできませぬが……ほっほっほっ」

ただ、尼はそんな由己の声がする方へ満面の笑みを見せるのだった。

「そうでしたか。どうやら、わしの取り越し苦労だったようで。村の童が尼のことを妖怪婆で、妖術で童を出現させたなどと陰口を叩いていたのを馬鹿なと思いつつ、いつの間にか、妖怪退治の気分でいましたわ」

由己は牧蓮尼と共に大笑いした。

「由己様は童のお心をお持ちのようで、ほっほっほっ」

由己もおどけて、

「尼、わしはもう頭髪に雪がちらつく四十七ぞ。童はなかろうて」

二人は、クスクスと笑っていた。

「昨年の事変については、この尼も聞き及んでおりますが、俗世のことは既に忘れ申した。ほっほっほっ。して由己様は、光秀の行く末を調べてどうなさるおつもりでしょうか?」

由己は顎をさすりながら、

「この度、本能寺の事変を軍記物語としてまとめもうした。全貌をそれがしなりに理解したつもりじゃ。世間的には光秀は磔になり、既に死罪と。しかしながら実のところ、偽首ではないかとの声もなきにしもらず。まこと、これで完結したのか、左にあらず、続きがあるのか、ただ、わし自身の目で見極めたいのじゃ。乗りかかった船ってやつで」

牧蓮尼は表情を崩さず、

「そうでしたか。しかしながら、この庵には八十を過ぎた妖怪婆と、小五郎のみでござります。ほっほっほっ。光秀なる者はおりませぬなぁ」

もしや、この庵に光秀は隠れ住んでいるのではないかと勘繰っていたが、尼はどうやらそれを見破っていたようだった。

「……はぁ」

手がかりを失った由己は、苦笑いを浮かべてため息を漏らし、水をもう一口飲んだ。

由己は尼と濡れ縁に座り、木々の梢の合間にみえる風景を眺めていた。

ぴぃー、ぴぃー

と鳴き声を発しながら、鷹が気持ちよさそうに旋回して空を飛んでいるのだった。そんな、まどろむ沈黙の後だった。

由己にとって思いもよらぬ展開が待っていた。

「もし、由己様。おこがましいこととは存じますが、童を助けようとした貴方様に、お願いしたき事がござりまする。その前に、恐れ入りますが、庵の裏にある薪を取っていただけますでしょうか」

由己は力ない笑顔を浮かべ、

「ええ、それは構わんよ。少々待たれよ」

由己は庵の裏側に回ったところ、薪が積み上がっていた。その薪を取ろうとした時、由己はギョッとする。なんとこの潰れかけの庵には似つかわしくない漆塗の箱が、薪を山のように積み上げた中に、隠してあったのだ。その箱に、はっきりと桔梗紋が刻み込まれていたのだった。

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