第8話 信長消失 (4)

たなびく薄い雲が朝日を遮り、本能寺周辺に今まさに仄暗い影を落としていた。光秀は炎上する本能寺を眺めながら、馬上の心地よい揺れと本懐を遂げた高揚感に身を委ね、自身率いる本隊を一路本能寺へと進めていた。

明智光秀が到着した時、すでに本能寺は業火で覆い尽くされ、焦げた柱が砕けて轟音と共に崩壊していくのだった。

光秀が到着した直後、青ざめた斉藤利三が不安な空気感をまとって駆けつけた。

「利三、まずは重畳至極。本能寺の信長を誅伐しただけでなく、嫡子信忠も葬れたのは都合がよいわ。今は方面に散っている宿老どもが信忠を旗頭にひとつにまとめられては敵わんからのぉ……」

「殿、一大事でござる」

利三は光秀の言葉を遮るように言葉を発した。

その言葉にただならぬ空気を読み取った光秀に緊張感が走る。光秀が利三から女中の衝撃的な証言を聞いた時、自身の燃えたぎる殺意に、冷水を浴びせられた感覚に囚われた。光秀はサッと青ざめ、そして目論みが外れ、ワナワナと怖気づく。

————本能寺を囲み、信長の御側衆や馬廻衆に血の雨を降らし、寺に火をかけて焼け落ちてはいるものの、そこに信長は……。

光秀はやるせない情に何度も何度も地団駄を踏み、持っていた采配を地面に投げつけるのだった。本能寺を急襲し、信長を殺害したと揺るぎない確信を心に抱いていたところに、まさかの信長逃亡劇が浮上したからだった。

側にいた雑兵は、自軍の圧勝を信じて疑っていなかっただけに、利三や光秀の動揺ぶりにたじろいでいた。

光秀の心の声がときどき漏れ聞こえてきた。

「そんなはずは……そんなはずはない……」

————殺したはず。

————我が軍は丹波口から侵入し、完璧を期して、本能寺を取り囲んだ。

————進軍を気付かせる要素は事前に排除していた。

「……逃げる時間などなかった。そんなはずはない」

確かに最後の信長の姿を目撃した証言はこれだけだ。まさかとは思うが、これだけ囲んだ我が雑兵に身を変えて逃げた可能性も捨てきれない。光秀は不安で胸が締め付けられながらも、自問自答して自身を落ち着かせようと試みたが、

「逃げられたやもしれん……」

この疑惑を払拭できずにいた。そんな光秀を見かねて利三は諭すように、

「殿、しっかりなさいませ。信長は死んだはずでござる、殿。ご心配は無用。信長はあの炎の中に!」

そう言いながら、本能寺の焼け跡を指さした。

「逃亡を図り、雑兵に首をとられるような危険を犯すとは思えませぬ。それこそ、末代までの恥辱」

光秀はうつむき加減で、か細い声でつぶやいた。

「わしもそう思うておるが、奇想天外なお方である故に、我らの常識では図れんところがある」

利三の言葉は最もだが、光秀は沸々と湧く疑惑を払拭させることはできなかった。光秀は今更ながら、事前に根回しできずに、突発的に本能寺を急襲せざるを得なかったことを悔やんだ。実際、光秀は信長の嫡男信忠が妙覚寺に在京していたことも後から知ったくらいだった。そのため、攻撃が本能寺と妙覚寺を同時に襲撃できていなかった。それが信忠に時を与え、二条城に逃げ込まれる失態を犯していた。それほど段取りの悪い襲撃でしかも、京の四つの要害も抑えるのに時間がかかっていた。

光秀は、信長が逃亡した可能性は意外に大きいことに、今更ながら気がついた。光秀はこの襲撃が身の破滅を自ら招いたかもしれぬ、と不安と恐怖の虜となっていた。

————信長が逃げたとなると越中の柴田か、備中の羽柴のところか? いずれにしても他の宿老どもが集結する前に首を刎ねなければこちらが危ない。

光秀はそう考えていた。

「信長が逃亡したやもしれん。まだそれほど遠くへは逃げられぬはずじゃ。利三、急ぎ、武者狩りじゃ! 京洛中を探索し、信長はじめ、その側近どもは見つかり次第ことごとく首を刎ねよ!」

「ははっ。かしこまってござる」

利三は大きな疑惑を胸に抱き、雑兵に指示を出しながら、忙しくその場を後にした。

そして京洛中におぞましい土砂降りの血の雨が降り注いだのである。

「探せ! 探せぇ! 見落としは許さぬ! は、はよ、探せ」

光秀の震える軍配が忙しなく動き、その苛立ちは雑兵への指示と共に伝播していた。

武装した雑兵が京洛中へ散り、落武者狩りが開始された。雑兵たちは民家をこじ開け、強奪や強姦に励みつつ、逃げ隠れる信長を、血眼になって探し始めた。

いつもの京の朝風景を血に染め、断末魔が響き渡り、落武者の首を狩る。おびただしい血と共に、首のない死体がそこら中に散乱していたのである。そしてその首は本能寺へと集っていた。

そんな地上の地獄絵の上空を烏が旋回しながら、どの首をついばもうか涎を垂らしながら眺めていたのである。

しかし、おぞましいまでの首の山の中に、大首級である信長の首はついに発見することはできなかった。


                   *


由己は脳天に釘をぶち刺されたような衝撃に襲われていた。

「な、なんと信長様は逃げたとな。そんな馬鹿な!」

由己が思わず声を荒げたので、台盤所で働いていた女中達が、何が起こったのかと手が止まり、恐れながらも好奇の視線を向けていた。

「いや、ありえん。信長様が生きていたとしたら、すでに十日以上経った。にもかかわらず、なんの御沙汰もないとやはり、御逝去あそばされたのは、間違いなかろう……」

そうつぶやく由己だが、少なくとも本能寺が襲われたまさにその日、逃亡を図ったとしても不思議ではないと思えるのだった。なぜなら、信長が滞在していた常の間には現に屍体がなかったからだった。

だがそうなると、今信長が行方知れずということが気になる。そして、誰か光秀とは別の黒幕が存在することになる。光秀も行方がわからなかった信長を秘密裏に殺したことになるからだ。だがその黒幕は本能寺の急襲以降、山崎で光秀が死ぬまで姿を現していなかった。となると、警戒して姿を現さなかった可能性を除けば、その黒幕が信長を暗殺しなければならなかった動機がないことにもなる。唯一ある人物としたら……

「……秀吉様か……ふうん……」

由己はつい口に出してしまった。

「は? 秀吉様?」

黄津が小首をかしげてつぶやく。

もし秀吉が信長を殺した黒幕とすれば、秀吉は、光秀が信長を狙う日を知っていたことにもなる。そうなると、山崎の合戦は織田家の転覆を狙った二人が、仲違いしたという事にもなるだろう。

しかし、秀吉は堂々と「信長の仇討」を大義名分としていたことが気になる。もし仲間だとすれば、光秀から、

「何をぬかすか! 禿げネズミが! おぬしも主犯じゃろうに!」

と流言があってもよいだろうに。だがそんなことはなかった。ただ、あの戦の総大将は秀吉ではなく、四国征伐の総大将の三男『織田信孝』だったのだが……。由己はハッと我にかえる。

「いやいや、なんでもない。それにしても気になるのう。信長様は生きて脱出された後、どこかでご自害? いや、それはおかしいのう。うまく逃げられたとしたら、そもそも自害することはなかろうに。しからば、お腹を召して屍体だけ逃げ出した? そんな怪談話もなかろうて。その場合だと信長様を連れ出した家臣がいたことにもなるのう。明智軍に完全に取り囲まれた本能寺から……ふむう……」

由己は袋小路に迷い込んでしまった気がした。

結局、紆余曲折しながら、信長の屍体がどうやって消失したのか、元の謎に戻ってしまったからだった。

迷い込んだ由己は本能寺跡へ向かうため、台盤所を後にした。女中たちは由己が去ったのを見届けて、食欲を誘う香りが充満する中、いつもの料理支度の忙しさに身を委ねるのだった。

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