第9話 死華(しにばな)(1)
人通りの多い表通りの両沿いには、丸石をのせた板張り屋根の町屋が立ち並んでいる。その通りは砂埃が舞って視界不明瞭ではあったが、風の悪戯ではなく、行き交う町衆の草履のヒタヒタ、下駄のカランコロンという心地よい音と共に、巻き上げられたものだった。そこに様々な人間模様を眺めることができる。屋根で何か修理している人、駆け回る童ら、草履売りや、旅装の僧侶、野菜の入った菜饅頭や砂糖饅頭を売る商人など、自慢の商品を声高らかに張り上げながら、売り歩く行商人が行き交っていた。
「魚、いらんかえ。今朝上がったばかりよ。いらんかえ!」
天秤棒の両端に備え付けた木桶から、水揚げした鮮魚が顔を出す。その天秤棒を振り担いで売る、振売の威勢のよい声が、風情あふれる町風景にしていた。
ただ、大地にはまだ、大規模な武者狩りの生々しい血痕が、残されていた。しかし、行商人の張りのある声や、行き交う人々の談笑の情景は、それら悲劇を早く忘れようと必死に見て見ぬふりをしているかのようだった。そういった雰囲気がより一層悲劇を際立たせていた。
そんな通りを由己は備忘録帳を眺めながら、考え事に耽っていた。三木城から秀吉所望の播磨別所記を持参したところ、今度は本能寺の事変についての軍記物を描くよう下知され、本能寺の焼け跡に足を運んで、下調べをしてきたのだった。夢中になると所構わず備忘録帳を開いて読み耽るのは悪い癖と認識しながらも、直す気はさらさらない。
————信長様の屍体がなぜ焼け跡にないのか?
由己を悩ます最大の謎であった。それは火災跡に屍体が紛れてわからなくなったわけではなく、どうやら逃げたらしいという摩訶不思議な謎が立ちはだかっていた。
————明智光秀軍一万騎以上が包囲する中でいかにして消えたのか?
由己は目を細めて備忘録帳を見つめていた。どれくらい歩いただろう。心ここにあらずといった由己には気付けなかったが、実はまだ本能寺跡近くの通りを歩いていた。
備忘録帳から顔を上げた由己はふと茶屋を見つける。そういえば、本能寺の境内からずっと歩き通しだった由己は、好物のお茶と甘いものにありつこうと、備忘録帳を閉じる。そして一休みするため茶屋の縁台に腰掛け、備忘録帳を横に置いた。
その茶屋の中から忙しく立ち振る舞う、桂巻きした女中が、暖簾をかき分けてひょいと顔を出した。
「旦那様、いらっしゃい。何にしまほぉ?」
その若い女中の屈託のない明るい声が由己には心地よかった。
「あぁ、歩き回って足が棒じゃ。茶と何か甘い物が所望じゃ」
注文をとった女中は忙しそうに中に引っ込んだ。店の中の会話が、格子から漏れ聞こえてくる。
「寝込みを襲うたぁ極悪凶猛な光秀……」
「信長様が……」
「いや、信忠様……」
屋内の客が本能寺の事変を噂しているようだ。
由己は京の町衆がいかに噂しているか気になり、格子近くに席を移して中から漏れ聞こえる会話に耳を傾けていた。
しばらくすると女中が現れ、お盆に茶と砂糖饅頭を乗せて由己の座る縁台にお盆のまま置いた。その女中は店の中に引っ込まず、由己の側に立ちすくんでいた。何やらジッと茶を飲む由己の方を見ていたのである。
若い女子に見つめられるは、惚れられたか、それとも喰い逃げしそうなほど貧相に見られたか、おそらくは後者だろうと悟ってため息をつく。
「そ、そんなとこで見張っとらんでも食い逃げなどせんわ。お代はここに置いておくぞ」
そう女中にいって銭をお盆に置く。だがそれでも由己のそばを離れようとしない女中を横目でチラ見する。さては聞き耳立てたことで随分と怪しまられたか、とやや気分を壊しながら、お茶を口元へ運ぶ。すると茶の香りが由己を包み込み、そんな壊れた気持ちを修復してくれるのだった。
そうこうしていると、その女中がやぶから棒に尋ねた。
「お侍さんかい? 織田信長様の事変をお調べになっているのは?」
女中の意外な一言にお茶を飲んでいた由己はむせ返る。
「ゲホッ……ゲホッ……お、おぬし、なぜ存知ておる?」
仰天した由己の顔を見て女中は、コロコロと屈託のない笑みを見せながら、
「へい、お侍さんがその太い備忘録帳と睨めっこしてたんで……」
と言いかけた時、女中の声が聞こえたのか、格子窓の中からひょいと顔を出す男がいた。
「あ、さっきのお侍さん。まだいたんですかい?」
そう言うと、男は茶屋の中から外の由己の座る縁台までやってきて、ドカッと座った。
「さっきはどうも。あっしは番匠の長兵衛と申しやす。お侍さんはどうして本能寺の事変をお調べになってるんで?」
由己はなぜ女中が自身のことを知っていたのか理解し、笑みがこぼれる。
「わしは播磨の大村由己と申す。さっきは仕事中、すまんかったなぁ。実は軍記物語を描くのに事変を詳しく知りたいだけなのじゃ。とはいえ、まだ何にも知らん。おぬし、何か知っておったら教えてくれんか」
長兵衛は薄ら笑いを口の端に浮かべ、悪戯っぽい色を出しながら、
「ええですよ。我々番匠は現場で働いとるので、色々と情報が入ってくるでさぁ。ただわしらも何も飲まず食わずで働かされてヘトヘトで……」
————ははん、こいつは何か馳走せよということか。
由己は心の中でつぶやく。
「よいよい。なんでも馳走してやるわ」
長兵衛の表情は弾けたように喜び、格子から中を覗き込んで叫んだ。
「おい、おめえら、旦那が馳走してくれるってよ」
茶屋の中が大騒ぎになっている。由己はびっくりして格子から中を覗き込んだ。全員、薄汚れた顔に憎めない笑顔を浮かべて由己を見ていた。
「由己様、この茶屋、わしら番匠の休憩場になっとりやす。へへへ」
由己もつられて笑っていた。由己は茶屋の中の座敷に席を移し、皆の中に座り直した。「よいわ。それより今何の話をしていたのじゃ? 信長様とか聞こえて気になってのう」
「へい、今大恩ある信長様の寝込みを襲って殺すなんて明智光秀とかいう奴はよほどの悪逆非道の極悪人に違いないと言っていたとこでさぁ」
「やっぱ、神や仏は居るもんよ。極悪非道な明智の殿様も呆気なく死ぬんだから。のう長兵衛」
長兵衛の後ろにいた五右衛門が声をかける。
「まっこと、その通り。されど家族は辛いわなぁ。確か坂本城に嫡男がいたとか」
「坂本は焼け落ちたそうなぁ。おそらく城と共にじゃなぁ。南無阿弥陀仏……」
五右衛門はそう話しながら手を合わせる。
「あ、そうそう。由己様、その明智の殿様にやられちまった信長様がご自害された様が噂になっとるっていう話を聞いてたんで」
「なんと、信長様のご最後とな」
————ほほう、いきなり興味深い噂じゃな。
と由己はニヤつく。というのは、いくら聞き込みしても、信長が本能寺で切腹したという話以外、由己の耳には入ってこなかったからだった。
「信長様の屍体が露と消えたでしょ! この五右衛門の奴、逃げたんじゃねえかって言いやがるんで!」
長兵衛は五右衛門の肩をポンポンと叩きながら言う。
「ほほう」
「あの信長様が寝込みを襲われたからといって尻尾巻いて逃げるたぁ思えねぇ。旦那もそう思うでしょぉ」
「まぁ、京中、明智の雑兵だらけの中を逃げるのは至難の技じゃと思うがのう。逃げて雑兵に首取られるのが一番の恥辱じゃなぁ」
「そうよ。旦那の言う通り。なぁ、五右衛門! 旦那もやっぱそうおっしゃってるじゃねぇか」
「……」
五右衛門は不服そうな顔を見せる。
「じゃが、本能寺から立ち去ったっちゅう、不可思議な話もなくはないのじゃ」
由己に天狗の鼻を折られた長兵衛は自身の言葉を思い出したようで、
「あ! あの裏口の亡霊の話! ありゃあ、やっぱり、ただの怪談話でぇ。信長様じゃあねえと思うんでぇ。で、信長様の最後の様子が噂になってるってのを今聞いていたとこでさぁ。へい、兵吾郎、さっきの話を旦那に聞かせてやってくれやぁ」
由己は、女中の黄津の目撃談だけでは、前後の状況が全く把握できなかったので、兵吾郎とやらの噂話がどのようなものなのか、興味を惹かれた。ただ、あくまでも噂話でどこまで信じられるかは眉唾もんだとたかを括っていた。
その兵吾郎は番匠という力仕事からか、身体つきがしっかりした男で、仕事着なのか、右腰から膝にかけて黒ずんだ染みがそのままで、埃っぽく薄汚れた格好をしていた。その兵吾郎は狂言師のような芝居かかった語り口調で妙に熱っぽく話すのだった。
「ほい。由己様、本能寺を宿にしていた信長様は壮絶な最後だったんでさ。
……べんべん! 時は天正十年六月二日の深夜のことだった……」
と右頬にざっくりと斬り傷がある兵吾郎が語り出したのだった。
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