第7話 信長消失 (3)

由己は秀吉との謁見の後、勝龍寺城の台盤所へ顔を出していた。そこでは多くの女中が忙しく動き回り、料理の用意に精を出していた。また多くの台盤が並べられ、盛り付けがされているところだった。飯や、焼き魚などの炊煙がゆらめき、煮物などのほのかな甘醤油の香りいっぱいの空間に由己の腹の虫が暴れ出すのだった。

由己はそんな台盤所の中を見渡していた。

「すまんが、黄津(きつ)という女中はおるか?」

何人かの女中は、ヒョロッと顔を向け、そのうちの一人がたすき掛けした後ろ姿の女中に声をかけた。

「お黄津、お呼びだよ」

コツコツと小気味よく野菜を切っていたお黄津は手を止める。そして声をかけてくれた者に軽く頭を下げた。黄津は前掛で手を軽く拭きながら、そそくさと由己のもとへやってきて平伏するのだった。まだ齢十四、五といった幼顔の女子だった。

「へい。オラが黄津で。あのう何か……」

お黄津は探るように由己を覗き込んだ。

「そちが黄津か。先ほど秀吉様より、本能寺で捕われた女がおると聞いてなぁ」

お黄津の顔がサッと恐怖の色に染まる。

「オラ、まっこと何も……」

黄津はしどろもどろになり、血の気が引いてどんどんと蒼白く変貌していく。外傷は見たところないようだったが、どうやら未曾有の恐怖に晒されたようで、胸を抑え苦しんでいる様相を呈していた。由己は笑顔を作って落ち着かせた。

「いやいや、怯えることはない。ただ軍記物を書く題材を調べとるだけじゃ。安心せい。あの本能寺で何をしていたのじゃ。何を見た? 何があったか話してくれんか?」

由己は本能寺の焼け跡から信長の屍体どころか、毛髪一本さえ消え失せた謎を解く、何か糸口でもないかと女中の話に期待していた。だが女中は侍に対してかなり恐怖を抱いている様子で、顔がこわばっていた。変に警戒されて記憶を奥底に沈められてはそれこそ一大事。女中の余計な心配を取り除く方法はないものかと思案を巡らす。そんな由己の鼻腔をくすぐる甘醤油の香りがふんわりと舞う。そして由己はいたずらっぽい表情をつくって語りかけた。

「ところで、なんとも言えぬよい香りじゃなぁ。その煮物をちょっとつまませてくれんか。腹の虫が暴れて困る」

由己はお腹をさすりながら配膳されていた小鉢を指して言った。黄津はどうぞといった仕草で小鉢を差し出した。由己は煮物を口に放り込んだ。

「こりゃあ、美味じゃのう。これはおぬしが作ったのか? 若いのに良い腕じゃのう」

「あ、ありがとうごぜいやす」

白い頬が桃のようにポッと赤く染まる。お黄津は由己の気遣いに気付いた様で、顔には安堵の色が戻った。

「この煮物だけは上様の膳にもお出しして構わないと言われとりました」

「ほほう。信長様もお気に入りじゃったかもしれんのう。して本能寺でも料理番を?」

「オラァ、上様が本能寺へ宿された際の料理番の手伝いをしておりました。あの日は茶会があるとかで、その下準備と上様の朝食準備をと、早朝から取り掛かっとりました。それで台盤所におりやした。そしたら、とんでもないものを見てしまい……」

「ほほう、ぬしはそのことを光秀殿に?」

「へい、捕らえられて利三様? の下へ連れてかれ……」

由己は黄津の話に夢中になりながら、小鉢に箸をつけ、煮物を口に放り込むのだった。


                  *


斉藤利三は炎に包まれ、焼け落ちる本能寺を眺めながら、明智光秀の到着を待っていた。周囲は明智軍の雑兵が入り乱れ、本能寺はすっかり包囲されて、蟻の這い出る隙間もなかった。

業火が本能寺の主殿や本堂を燃やし、焼け焦げた材木では重さに耐え切らず、荘厳な屋根に仕上がっていた流造が、音を立てて崩れ去るのだった。

利三はそんな本能寺を兜の奥から、遠い目で見つめていた。まさか自分が、信長を切腹に追い込もうとは、思いもしなかったのである。ただ、主人である光秀がああなったのは、自身の失態が多分にあっただけに利三は、たとえこの身が滅びようとも光秀を支える覚悟を秘めていた。そんな利三の眼には、崩れ去る本能寺に血に染まった織田信長を見ていたのだった。しかし、ほんの数日後には自分の首が半骸となって晒されていようとは、この時思いもしていなかった。

そこへ女中を連れた雑兵が一人、利三に駆け寄る。その雑兵は東門から侵入した斉藤利三隊の配下である野々口隊の雑兵で、本堂襲撃時の信長探索中に台盤所で女中を引っ捕らえたことを報告に来たのだった。

「殿。あの目の前に見える本堂裏の厨で、女中を一人捕らえたので、こちらに連れて参りました」

雑兵は女中の背中を乱暴に押し、斎藤利三の前へ引き出した。

背中を強く押された女中はその場に倒れたが、すぐに居住まいを正し、平伏するのだった。その下げ髪の女中の白い着物は火災と砂埃で薄汚れていた。そして震える声で利三に懇願するのだった。

信長を死に追いやった今となっては、利三には女の捕虜などどうでもよかった。だが女の口から意外な言葉を耳にして状況が一変する。

「どうか命だけは……どうかお助けくださいまし……オ、オラはただ上様を見ただけで……他は何も……」

女に背を向けて焼け落ちる本能寺を眺めていた利三は、その女中の言葉を聞くと勢いよく振り返り、片膝を折って女に迫る。利三の物怪(もののけ)の様な険しい鬼面を見るなり、女中は恐怖に取り憑かれ、悲鳴を上げながら平伏する。

「おい、女、何を見た? 全て話せ。でないとあれぞ!」

利三は女を凝視しながら、本能寺の本堂前に横たわる血まみれ屍体の方へ、スウッと不気味に指をさした。

女中はその指に誘われるように視線を移すと、悲鳴をあげ、再び平伏して震えていた。

「と、殿様は白い着物を着ておいでです」

「どこで見た? えぇい、どこで見たのじゃ?」

利三の鬼面と怒号で女中の眼球が恐怖で飛びださんばかりに見開き、怯えて身を震わせ、失禁で裾を濡らしていた。

そしてひれ伏しながら、女中は恐る恐る続ける。

「は、はい。そ、その……あの……常の間でお見かけを……。その時殿は血を流されて倒れていたような……。オラがそばへ駆け寄ろうとすると障子を閉められ……」

利三は期待以上の証言に、前のめりになるのを必死に堪える。

「何? 殿が倒れていたと? 常の間とは、本堂を正面に裏の左側に位置する屋舎か?」

「へ、へい。」

女中はゆらめいて消えかかった蝋燭の火のようなか細い声で答える。

「そのまま台盤所にいたところ、中間(ちゅうげん)の誰かが殿様を担いで裏門から出て行くのを見たような……」

斎藤利三の表情に混乱の色が生じ、激しく動揺する。利三にとって、脳天をかち割られたかのような衝撃だった。利三はあの業火が信長を灰にしていると当然のように思っていたからだ。だが目撃証言があったわけではなく、討ち取った報告もなかったのが、頭の片隅に引っかかってはいた。そこへきて、この女中が信長を見たと漏らしたのだ。利三は突如生じた不安と焦りが同居する困惑顔で女中を見つめる。

「何? 出ていっただと? この包囲した本能寺から? 信じられぬ。まことか、それは! まことかと聞いておる!」

利三は焦りのあまり、声を荒げる。

女中は慌ててぎこちない笑みを浮かべて、上目遣いで利三を見ながら答えた。

「へ、へ、へえ。間違いないかと……」

矢継ぎ早に質問が飛ぶ。

「生死はわからぬか? 担がれた殿は生きていたのか? それとも死んでいたのか?」

女中は既に恐怖で半ば気を失いかけており、まともな応答は期待できないと思われた。表情を曇らせ震えながら、小首をかしげる女中の様子は、血が巡っている様には見えなかった。

「し、死んでいるように見えなくも……いやぁ……オラには……」

利三は、この女中にこれ以上聞いても無駄だと見切りをつけた。利三は再び燃え落ちて、黒煙を上げる本能寺を見つめていたが、さっきまでの光景とは全く異なっていた。そこで信長が燃えているとは言い切れなくなったからだった。利三の額からは冷たい汗が噴き出し、焦りは頂点に達していた。

「まさかとは思うたが……、逃げられたやもしれん」

利三は痛恨の極みに歯軋りしながら、言葉を漏らした。その時、利三の視線の端に明智光秀が本能寺に到着したのが映り込んだ。利三は女中を連れて明智光秀の元へ血相を変えて駆け寄るのだった。

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