第6話 信長消失 (2)
「昔な、この本能寺に医術の心得のある僧がおってなぁ。この近くに住まう六郷橋家の七兵衛の妻が誤って蝿(はえ)を飲み込んだとかで、奇っ怪な病にかかってしもうて、この僧を頼ったそうじゃ。ちょうどこの常の間で病床に伏しておったが、もう手遅れだったそうじゃ。死の三日前、その妻は顔が鬼のように真っ赤に腫れ上がり、眼球が飛び出さんばかりに変形してしまってなぁ、苦しみ悶える様は悪霊にでも取り憑かれたようじゃったとか……。あまりに恐ろしげなうめき声に旦那の七兵衛も怖気づいてなぁ。近付こうとせんかったそうじゃ」
この番匠は怪談話が好きとみえて、すっかり話に夢中になっている。
「ほう、それからどうなったんで……」
由己も嬉しくなり、調子に乗って話す。
「その後、七兵衛の妻は『く、苦しいぃ……寂しいぃ……』と泣き叫びながら、亡くなったそうじゃ。それから三日後のことじゃ。獣の遠吠えが響く闇夜に、誰もいないはずの常の間から、女の啜(すす)り泣く声がしたそうじゃ。僧は不審に思い、常の間に入ろうとしたそうなぁ。じゃがなぜか障子が開かん。そこで、ほれ、そこの裏口に回ってきた、その時じゃ。なんと乱れ髪の合間から、昆虫のような奇怪な眼玉をギョロリとさせる蒼白い女が揺らめいておったのじゃ。その女は死んだはずの七兵衛の妻だったそうなぁ。じゃが、蝿(はえ)のようにカサカサと、妙に複雑怪奇な首の動きをみせたかと思うと、その亡霊は、けたたましく、身の毛がよだつ笑い声を上げながら、蟹股で猛進してきたそうじゃ。僧は絶叫しながら気絶したそうなぁ」
「ヒェ……」
番匠の怖がりように、由己は嬉しくなった。
「怖や怖や、ここで亡霊を見たというは、まことの話かもしれんのう」
由己はわざとこの番匠を怖がらせようと、咄嗟に作った怪談話をした。実はここへ至る前に由己は既にその女中の事を秀吉から聞いて仔細を知っていた。それゆえに幽霊騒動になっていることが由己には愉快であった。
「旦那、怖がらせねえでくだせぇ」
由己はその番匠と談笑しながら、備忘録帳にスラスラと筆を走らせて記録していた。その様を見ていた番匠は、ただ噂話をしているだけではなく、今回の事変を御上が何かしら調べているのだと勘繰ったようで、ベラベラと喋りすぎたことを、今更ながら後悔している様子だった。
「いやぁ、お侍さん、ただの怪談話で、怪談! そんな真に受けんでも……ねぇ?」
由己は備忘録帳から顔をあげ、ふとあたりを見回しながら続ける。
「ところで、京洛中では武者狩りがあったとか……」
「へい。その日の朝駆けに武者狩りがあってあちこちで悲鳴の嵐で恐ろしかったのって、もう、あっしも寝起きに長槍突きつけられて、びっくりでぇ……」
と番匠は長槍で突きをする構えを見せた。
「その落武者の首級や屍体はどこにあるか知っておるか」
番匠は、いい加減に切り上げたいらしく、早口で答えた。
「あ、その首や首無しは阿弥陀寺の和尚が明智光秀様に断って全て貰い受けて葬ったとか、なんであっしらも瓦礫の下から見つかったホトケさんを、阿弥陀寺まで結構運んだんでさあ、それが何か」
「ふむ。いやちょっと気になってな。いや、引き留めてすまんかったな」
由己はまたサラサラと備忘録帳に筆を走らせた。
「へい、ほな」
番匠はホッとした様子でその場を後にした。
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