第5話 信長消失 (1)

羽柴秀吉からの難題を抱えた大村由己は翌日本能寺にいた。その日、どんよりとした仄暗い妖雲が、焼け崩れた本能寺の上空を覆い尽くし、怨念や妖気が渦巻く凄絶な遠景となっていた。周囲の雑木林の梢や、竹林の群生が妖風にそよぎ、ザワザワと不気味な笑い声に聞こえるのだった。

この暗雲たなびく空を怪しく舞う烏(からす)たちが愕然とする数の晒し首と、そこから漂う死臭に誘われて、我欲の目つきで見下ろしていた。無秩序に旋回する烏たちの漆黒の眼に情は宿しておらず、ただ飢渇をしのぐため、薫る肉に涎(よだれ)を垂らしていた。

そういった数十匹の烏が我先にと晒し首をついばんでいた。半骸状態の生首となった明智軍の末路はなんとも怪奇じみた様相を呈していたのだった。

そんな本能寺は今、信長の三男の織田信孝の命により、亡き父である信長の菩提を弔うために再建工事中だった。そのため、多くの番匠と言われる大工職人が忙しそうに動いていた。

由己は本堂の裏手に位置する焼け落ちた常の間辺りで足を止めた。そこが第六天魔王と恐れられた織田信長が、生涯を閉じたと思われる場所だったからだ。謎が漂うこの焼け跡で感慨にふける由己は、相対的に刻の経過が遅く、自身以外の全てが残像でしかなかった。

由己は残骸を避けながら焼け跡を歩き、足を止めて覗き込んでは、備忘録に何やら筆を走らせていた。

「ふうむ。どうしたもんか……」

思わず声が漏れる。信長の亡骸はおろか毛髪一本すら無くなっていた、という謎を解明する糸口はないものかと探っていたが、どうやら視界の範囲には何もなさそうだった。

由己は本能寺の急襲時の様子を脳裏に思い浮かべていた。信長がこの常の間で明智勢にすっかり取り囲まれたことに気付いた時、もう逃げ道など、どこにもなかったはず。こうして焼け跡を見ても変わった形跡など何もなく、秘密通路のようなものも、もちろんなく、文字通り信長は消えたとしか由己には思えなかった。

実は、本能寺は早くから種子島や堺で布教活動を行なっていたので、それらの土地にたくさんの信者がいた。 その種子島には鉄砲があった。このことから、本能寺に依頼すれば、鉄砲や火薬を入手する、大事な物流となっていた。その関係で境内には火薬があり、それに火をつけて松永久秀のように爆死したのでは? と疑ってみたものの、何か吹き飛んだような焼け跡は見られなかった。何より爆発すれば轟音が鳴り響き、流石の町衆も見知らぬ顔はできなかっただろう。

難題に頭を悩ませていた由己の視界の端に、一人の番匠職人の姿を捉え、ふと我にかえった。

「これ、その者」

その番匠はひょいと振り向いた。

「へい、なんでございあしょう」

その番匠は忙しそうだったが嫌な顔ひとつせずに答えた。

「少々ものを尋ねたいのだが、おぬし、今ここは大勢の番匠が忙しそうじゃが、どういうことになっておるのか知りたいのじゃが?」

「へい。このお寺が焼け落ちたんで、建て直すんでさぁ。そんでこの瓦礫を片付けとるところでさあ」

由己は常の間あたりを指差しながらさらに尋ねる。

「左様か、焼け焦げて脆くなっておるし、大変じゃのう。して、この焼け跡からは、焼け焦げた屍体など見つかっておらぬか?」

番匠は由己の指差す方へ視線を移すが首を横に振りながら答える。

「へい、惨たらしい骸があちこちの焼け跡で見つかってまさぁ……、けど、ここいらはないね……」

「なんと……」

由己は思わず声を漏らした。信長の小姓たちであろう骸が、瓦礫の下から引きずり出された話に驚いたわけではなかった。そんな骸が焼け跡から発見されたということは、この常の間で信長だけ跡形もなく、灰になることはやはりあり得ない、と確信を得たからだった。瓦礫と焼屍体の判別がつかなかったのが原因で、信長の遺体は消えたように見えたという線も有りかと思ったが、そうではなかったように思えるのだった。

番匠は何か勘づいたようで、ニヤけ顔で由己に話しかけた。

「あぁ、お侍さん、例の信長様のことかい? それがホントに何もないんでさぁ。うちら職人仲間でも噂しとるんだが、ご自害された殿様は、まこと神か仏様になって天に召されたとか、いえね、今年六月二十三日が信長様誕生にあたる日で、参詣するようお達しがあったじゃねぇですか。それもあって、まこと神仏に御成さったじゃねぇかとか、あっしらも気味悪いのって。光秀の悪逆非道を前に無念のご自害とくりゃあ、ここいらにいると祟られるんじゃないかって。前よりもっとええお寺に建て直すんで、成仏してもらいてぇもんよ」

由己は、信長が自身を拝めよという奇妙な命令を下していたことを知ってはいた。安土城に建立した総見寺の事である。民衆に自身を信仰させ、信じる者は八十以上の長寿のご利益があり、信長誕生の日を聖日として参詣せよとのことだった。この番匠は信長の屍体が消えたのは、御神体にでもなったからだと畏れているのだ。

————馬鹿馬鹿しい!

由己は内心そうは思いながらも事実消失していたので、奇怪な妄想を信じたくなるのも理解できた。

番匠は軽く手を合わせるような素振りをしながら話す。

「あの明智光秀もこの場で蒼くなっていたとか聞きやしたでぇ。明智軍が捕らえた女がここで亡霊を見たって言ったとか……」

由己は眉をひそめる。

「亡霊とな……」

その番匠はますます幽霊でも見たような気味悪そうな表情をしながら

「へい。なんでもこのお寺の裏口から出て行く白い着物の亡霊を見たって女がいたとかで、噂ですぜぇ」

「それはそれは怪奇じみた話じゃのぉ」

由己は思わず、口元に悪戯っぽい笑みをうかべた。

「そういえば、この本能寺に恐ろしき話があるのを其方は存じておるか?」

「いえいえ、どんな話でぇ……」

由己はわざと恐怖を煽るような表情を浮かべて話す。

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